「もりちゃ~ん」だよ ぼくのこと | 44G 走りながら考える

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44年間の教員生活を終えました。昔のこと、今のこと、くだらない話、教育の話、まじめな話、毎日のフツーの日々、本、音楽、映像など、その日の気分で書いていきます。

 

「もりちゃん」ってずっとよばれてる

ほとんどの子はそう呼んでる

「先生」と呼ぶ子はちょっとまじめな子か

ぼくのことをよく知らない子だ

 

この3月までずっと

「もりちゃん」だった

最後の学校は小さな学校だったので

1年の終わりごろにはほとんどの子が

「もりちゃん」と呼んでいたような気がする

思い返してみれば

昔は低学年の担任をしているときは

「もりちゃん」とよばれていた

高学年になると

「先生」とよばれていた

多分、高学年になるとそれなりのきびしさ?きちんとしたところ?が必要だから

そうなったんだろう

部活もやってたし

強くなろうと思えばそれなりに厳しくしないといけないから

部活はいいところまでいくんだけど

決勝で負けたり

大きな大会でここで勝てば市でベスト4になれるときに

負けたりした

それはぼくには人間的な厳しさ?勝ちにこだわる気持ちが弱かったんだと思う

要はきびしくなれない なりきれない

そういう部分がどこかから漏れてくるんだろうね

 

60を越えるとスポーツの部活は担当しなかった

その分厳しさのようなものは減っていったのかな

みんな自然に「もりちゃん」と呼ぶようになった

67になっても「もりちゃん」だからね

 

子どものいいところは年齢で人を判断しないこと

(ただ、悪いいやな感じの子はくそじじいと思ってるし、年齢が高くなると自然に年寄りは嫌いになるのが多い)

それって子どものもってるとても大きな能力だ

まっすぐに人を見てる

外見じゃなくて内側から出てくるもので見てくれている

そこで子どもとぼくは通じ合う?(合わない)のかもしれない

だから「もりちゃん」って言う

子どもは本質的な部分で人を見極める

考えないで感じる

そこすごく大事
(ちょっとミヒャエル・エンデと重なるなあ)

 

だからこそこわい

ぼくが彼らのよさをこわしてしまっていることもあるはずだ

全員に対してOKなんてあるわけない

たくさんの子の傷をつけてきたはずだ

その子に対しては申し訳ないと思う

 

だけどそんなことすら考えてない人、多くありません?

人は生き続けている限り絶対にだれかを傷つけているはず

 

だから反対に考えて

あんまり自分にきびしくしちゃいけないんじゃないかな

そういう人って

他人にもきびしくなりがちになるんじゃないかなって

 

最近思ってる

人にやさしく自分に厳しくは 

なかなかできないよ

できる人は聖人だと思ってる

 

だからこそ

許せる範囲でゆるくしていけるといいなと

退職して思ってる

 

へへっへ

担任してるときによく言われたもん

また怒られた って

 

 

今の中一が卒業式でくれたの