一緒にいい庭づくりをしましょう。 -31ページ目

一緒にいい庭づくりをしましょう。

『庭の写真館』ナビゲーター川邉のブログです。
庭づくりをする方のお役に立ちたいと始めました。
樹木のこと、草花のこと、庭づくりと業者探しのヒント。
きっと、あなたの庭づくりのお役に立てるハズです!

光悦寺垣は本阿弥光悦が創作したと伝えられる竹垣です。幅の狭い平らな割竹を合わせて斜めに交又させ、菱格子の組子として、下部は太い半割竹で挟み、上部は幅の狭い割竹を束にして、末端が地表に達する玉縁とした“優雅で風変りの垣”です。京都の鷹ヶ峰にある光悦寺では、毎年11月に、全国の茶人が名茶器を出品する大茶会が催されます。また、名古屋城の二の丸庭園の光悦寺垣周囲には、いろいろな花が植えられ、開花の時期はとても賑やかな庭園になります。※写真の垣はイメージです。岩崎 光悦寺垣

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高松の栗林公園には、建物の境界に効果的に配された竜安寺垣があります。石庭で有名な京都の竜安寺が発祥のこの竜安寺垣は、肉厚の割竹と、菱目に重ねた組子を、上部は玉縁、下部は合わせ押縁で挟んだ竹垣です。富山市の呉羽山の中腹に建つ「寺院長慶寺」の坂道に、五百羅漢が並べられ、その道沿いに竜安寺垣が組まれています。道沿いに植えられた紫陽花が、まわりの景色や竜安寺垣と調和して見事な景観を見せています。※写真の垣は竜安寺垣のイメージです。岩崎3033 森モデル庭園-1

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高松の栗林公園には建物の境界に、効果的に配された竜安寺垣があります。石庭で有名な京都の竜安寺が発祥のこの竜安寺垣は、肉厚の割竹と、菱目に重ねた組子を、上部は玉縁、下部は合わせ押縁で挟んだ竹垣です。富山市の呉羽山の中腹に建つ「寺院長慶寺」の坂道に五百羅漢が並べられ、その道沿いに竜安寺垣が組まれています。道沿いに植えられた紫陽花の開花の時期は、まわりの景色と竜安寺垣が調和して、見事な景観を見せてくれます。※写真の垣は竜安寺垣のイメージです。岩崎3033 森 モデル庭園-1

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銀閣寺の参道、入り口付近の総門と、中門の、石積みの土波の上に組まれた「竹垣」は、建仁寺垣の変形というべきものですが、これが銀閣寺垣のオリジナルです。通常の建仁寺垣を1mほど(ほぼ半分くらいの高さ)に縮めたこの低い竹垣の上部に、ツバキやアラカシ、ネズミモチ、アオキなどの常緑樹を組み合わせて構成され、大刈込みの「生け垣」で覆われています。この竹垣と大刈込みの生け垣が絶妙な形で調和した銀閣寺垣は、単なる垣の意匠を超えた造形美を見せて、初めて訪れた参拝者を驚かせています。※写真の銀閣寺垣はイメージです。岩崎コピー

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建仁寺垣の由来は、この竹垣が建仁寺において創案されたことによります。建仁寺垣は、割竹の胴縁竹と押縁竹との間に、割竹の立子を隙間なく括りつけた竹垣で、外構の囲い垣として用いられています。名古屋城の庭園内にある茶室の入り口に、丸竹をうまくあしらった竹製の門が備えられています。そのまわりの竹垣は、一見、建仁寺垣に見えますが、よく見ると玉縁(上部の縁)は割竹で、立子も押縁も丸竹であることがわかります。このように建仁寺垣は応用範囲が非常に広く、よく使われる竹垣です。※写真の垣は建仁寺垣のイメージです。岩崎 建仁寺垣

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香川県高松市栗林町に位置する栗林公園は、江戸時代の大名庭園「栗林荘」が始まりです。栗林公園は戦前から名勝と称され、戦後、特別名勝に指定されました。庭園の広さは借景でもある紫雲山を含めると二十二万坪余りになり、日本最大級の文化財大庭園です。最初の造営は、高松藩初代藩主、松平頼重の時代に始まります。松平頼重は、隠居後の自らの居所として栗林の地を選び、栗林荘として整備しました。栗林荘は、北湖と南湖の大きな池を中心に、六つの池、四つの山、七つの島、八つの橋、六つの楼閣・茶屋など、計六十の名勝が庭内に設けられた大庭園です。庭内の池泉は水路でつながっています。栗林荘の魅力を挙げればきりがありませんが、殿様気分を味わえる絶好スポットの栗林公園は、大名庭園の姿を現在に伝える大庭園です。※写真の庭はイメージです。ブログ4 5035

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熊本の観光スポットとして知られ、市民の憩いの場にもなっている水前寺公園は、およそ七万三千平米の広さを持つ広大な大庭園です。もともとは肥後細川家によって設けられた藩主の別邸で「成趣園」と呼ばれていました。現在と同様の園内景観になったのは、八代藩主細川重賢時代の十八世紀半ばです。その後、明治時代に版籍奉還で成趣園は細川家の手を離れ、大正十四年に熊本市が成趣園を公園化して「水前寺公園」として市民に開放しました。現在の水前寺公園の見どころは「古今伝授之間」です。この建物は、もともとは京都御苑の八条宮家の邸内に建てられていたものですが、戦時中に解体され、戦後、水前寺公園で成趣園として再建され復元しました。※写真の庭はイメージです。森23-1

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岡山城の後楽園は、江戸時代、城の後ろにある庭という意味で「御後園(ごごうえん)」と呼ばれていました。その後、明治4年に、池田章政が「後楽園」と改称しました。後楽園は約三百年前、藩主池田綱政が政務の合間を過ごす場所としてつくった庭です。後楽園は、一つの完成図に基づいてつくった庭ではなく、庭に遊びながら、次々と好みで手を入れて、広げていったところに特徴があります。春の庭は、緑の芝生の中をゆったりと流れる曲水が後楽園の特徴です。夏は後楽園の中央の沢の池から、岡山城が眺められます。お城と沢の池が一体となった姿は、後楽園を代表する景観として多くの人に親しまれています。後楽園のもう一つの特徴は、後楽園を散策しながら庭を楽しむ「回遊式庭園」ではなく、座敷から壮大な景色を眺めて楽しむ庭になっているところです。※写真の庭はイメージです。栗山7

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現在の兼六園の基となる整備を行ったのが、十一代藩主前田治修(はるなが)です。1774年、千歳台から取り入れた辰巳用水を利用して、曲水を設け、石橋を架けて、菖蒲を植え、翠滝、中嶋の御亭、高の御亭などを造営しました。その後、観馬亭(のちの内橋亭)や瀧見之亭(夕顔亭)などが設けられました。次いで、十二代藩主斉広は滝沢御殿を造営して、隠居した後に自らそこに移りました。滝沢御殿の部屋数は二百以上にもおよび、能舞台も備えられた大変豪華な屋敷です。斉広は時の老中松平定信に蓮池御庭の命名を依頼して、松平定信は「兼六園」として斉広に届けています。「兼六」とは文字通り、六勝を兼ねた庭の意味です。庭園の特徴とされる、広大、幽隧、人力、蒼古、水泉、眺望の六つが共存した、それらを兼ね備えている名園が「兼六園」という最大の賛辞です。※写真の庭はイメージです。納富2

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水戸の偕楽園は、水戸藩第九代藩主、徳川斉昭によって、1842年に開園されました。斉昭はこれに先立つ1834年に、この地に梅を多数植えています。梅は花を愛でるだけでなく、その実を梅干しとして、戦いの時に活用することを考えて植えられました。その後、藩校「弘道館」の建設が具体化するにつれ、関連施設として偕楽園を開設する構想が生まれました。偕楽園は、往時、招待者による詩歌の会や、養老会が開かれました。現在は偕楽園の往時の景観はなくなりましたが、見渡す限りの自然の景観や回遊式庭園など、庭園様式のすべてを取り入れた庭は、現在もそのまま残っています。明治六年に園内の梅林の一部に光圀、斉昭を祀る常盤神社が整備され、広い梅園も、常盤公園として一般に開放されました。現在、常盤公園は、春は観梅の名所として全国に広く知られています。※写真の庭はイメージです。栗山18

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