前回のお話の続きです。
全ての源である生命
前回の説明で、私たちの事をパソコンに例え、
自分がパソコンになった場合、生命とは「電気」であると説明しました。
電気自体には個性も何もないので、非個人的なエネルギーと言い換える事ができます。
私たちを生かしている「生命」も同じく、非個人的なものです。
しかしながら、生命と電気では、明らかに違う部分があります。
その理由は、電気と言うエネルギーの形は、生命が持つ何かしらの性質が
姿を変えたものにすぎないからです。
生命というパワーの中に、電気の要素は存在していますが、
電気は「生命そのもの」という事が出来ません。
随分と分かりにくいんですが、例を下に挙げてみます。
ここにサイコロがあります。
サイコロは各面に1~6までの数字がふってあります。
しかしこのサイコロが、この画像のように
ハッキリと見えている部分が1の面だけだったとします。
この時、
「サイコロは1の面だけを持っている」と言うと虚偽となりますが、
「サイコロは1の面を持っている」と言うと真実となります。
隠れて見えてはいませんが、サイコロには確かに1以外も存在するからです。
サイコロそのものを生命として、電気との関係を考えると、
電気は、この多様な側面を持つ生命の内の1つの要素にすぎません。
そのため「電気は生命が持つ1つの要素である」と言う発言は正しいですが、
「電気は生命が持つ唯一の要素である」と言うと間違いになります。
それゆえに、電気と言う性質は生命そのものとは言えないのです。
ですが、生命のいち要素ではあるので、生命と同じ非個人的かつ、
様々な物質や機能に浸透する事ができるパワフルなエネルギー、という特徴を持っています。
1の面だけが見えているサイコロと同じで、生命には複数の側面があります。
それを私は「生命が持つ性質」と呼んでおり、その性質は6面のサイコロよりも
ずっとずっと多く、そのパワーの現れ方も多岐にわたります。
生命(神)の性質
生命の性質は多岐にわたり、全てを言語化する事ができません。
私が感じる限り、生命には始まりも終わりもなく、永遠かつ無限です。
微動だに動いていませんが、常時流れるように動き続けてもおり、
全ての存在の中に生命がありますが、どの存在も生命そのものではなく、
完全に全てを満たしていますが、完全に全てから独立もしています。
この質は明らかに形を超えているため、形の中で完全に描写する事は不可能です。
上記の説明も意味が分からないと思うんですが、
ですが、生命を知れば知るほど、上記のような表現しかできません。
こんな、なんだかすごい生命(神)なんですが、
私たちは日常的に、この生命の性質を自分を通じて体感しています。
そのうちの代表的なものを3つご紹介しようとおもいます。
生命が持つ性質の内、代表的なものが「幸福」です。
幸福は、何かしらの出来事や現象に付随して起こる感情の動きではなく、
生命そのものが持つ性質で、最も強い幸福感は「至福」と呼ばれています。
最近ではあちこちで聞くようになりましたが、幸福とはそれぞれの心に起こる、
とても個人的なことかつ、完全に内的な要素です。
何かを手に入れた時に幸福が湧きおこるのは、
幸福と言う生命の質を隠していた「欲」が一時的に大人しくなり、
自分の中にあった生命の輝きが分かりやすくなったからです。
欲の先に幸福があるのではなく、欲が幸福を隠してしまっています。
かといって、欲そのものを抹消すれば良いかと言われたら、そうでもないんです。
欲は肉体を生かす際の機能としても働いており、
また、自分を正しい方向へ動かすための原動力にもなっています。
「欲を見る対象が私に幸福を与えてくれる」と考えると、幸福を感じにくくなりますが、
「欲が幸福を隠してしまっている」事を理解した上で、欲と言う機能を受け入れると、
欲に振り回される事が少なくなり、幸福感を味わいやすくなります。
2:愛
生命の質と言って、最も有名なのがこの「愛」だと思います。
生命の中には「否定」というものが一切ありません。
嫌悪、非難、批判、差別、疑念、否定、拒絶、こういった、
心がギュッと苦しくなってしまうような要素が、一切ないんです。
生命は全ての個性を動かす性質です。つまりは、全てを受け入れて肯定しています。
このため、上記に書いた否定的な感覚は、全て生命を受け入れる事を困難にします。
否定している対象が自分であっても、他人であっても、関係ありません。
その否定を抱いているのは自分の心なので、否定の結果を受け入れるのは自分になります。
生命が我々の本質と考えた時、否定とは肯定の拒絶だと言う事ができます。
否定したいのではなく、肯定したくないのです。つまりは、愛を拒んでいるのです。
スピリチュアルでは、自分自身を愛する事の重要性が良く解かれます。
愛は生命の性質なので、自分を愛さない限り、生命を受け入れる事が難しくなります。
幸福も生命の中にあるんですから、自己否定がどれだけプラスにならない事なのか、
こんな風に活字にして読み起こすと、分かりやすいのではないかと思います。
3:喜び
幸福に似ていますが、喜びも生命が持つ性質の1つです。
私たちの尾てい骨のあたりにある第1チャクラのエネルギーが、
頭のてっぺんにある第7チャクラに達した時、猛烈なエクスタシー(喜び)が起こります。
こういう描写は、古い神秘的な芸術作品などの中にも見る事ができます。
人として生きている時、この「喜び」として体感されやすいのが「性」です。
性別も性欲の強さも関係ありません。「性」という性質の話しです。
性は肉体や心に「快楽」という喜びを起こしますが、
この快楽は生命が持つ喜びの性質そのものではありません。
このため、性が起こす快楽に囚われてしまうと、真の喜びに気付きにくくなります。
性に意識を置き続けると、苦しみを産み出す自我の幻覚※が強くなるので、
霊的な修行や、自我からの脱却を目指す際、あるいはネガティブ性を浄化する時には、
一時的に性と言うものから距離を置くために、禁欲という手段を用いります。
禁欲は浄化を行うための一時的な手段であって目的にはなりません。
どれだけ禁止しても、機能としての性が持つ欲は消し去る事が出来ないからです。
先にも上げているように、性が持つ欲は「肉体」と「心」の両方に起きています。
自分を特別に愛してくれる人が欲しいとか、誰かを特別に愛したいというのも欲です。
性欲は、肉体的な快楽の追究のみに起こるものではないのです。
愛されたい、愛したい、自分を見てほしい、自分を受け入れてほしい、
そんな風に思うのは自然な事で、何も悪い事ではないのです。
そういった要素がある事を受け入れて許す時、本当の喜びが起こります。
生命の持つ喜びのエネルギーは、物質的な供給や、肉体の生命力とも繋がりがあります。
あらゆる側面から、自分を満たすものを欲する心を許すようにしてみて下さい。
※自我の幻覚が強くなる理由
性は極めて個人的なものです。
自我は「個」に命を見ているので、性に関心を強く向ける時、
自我が執着している「個としての命」にグッと意識が集中してしまいます。
繰り返していますが、生命の力は「非個人的」なものです。
そこに「個人」を見てしまうと、正しく生命を描写する事ができなくなります。
正しく描写できないという事は、それだけ喜びが見えにくくなるという事です。
生命の性質はこれ以外にも、自由、豊かさ、美しさ、許し、優しさ、価値などもあります。
上げだしたらキリがない程に、生命は様々な要素を持っているのです。
しかし1つその特徴を上げるとしたら、生命が持つ要素とは、
私達が常に欲しいと思っている全てのものである、という事ができます。
幸福、愛、喜びは、私達があらゆるシーンで求めているものです。
他に挙げた、自由、豊かさ、美しさ、許し、優しさ、価値も求めていると思います。
不幸になりたくない、孤独になりたくない、苦しみたくないというのも同じで、
その心には「幸運、愛、喜び」への欲求が起こっています。
どうしてこのような欲が起こるのかと言うと、
自我の幻覚が生命の在りかを隠してしまっているからです。
次回は、そのお話をしていこうと思います。
では~
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