結婚して7年目くらいに、
「misatoのこと、自分は5%くらいしか知らない」と
大好きな夫に言われた。
それを聞いて私は
「ああ、この人と結婚して本当に良かった」と
惚れなおしたことをよく覚えている。
他人のことなんてわからない。
どこまで行ってもわからないし、
本当の意味でわかりあえることはないと
諦めに近い感情を持っている。
こんなに近い関係の夫婦だって、
他の人が1%しか知らないかもしれないところ、
お互い5%くらい知っているだけに過ぎない。
でも、5%しか知らなくても、
私のことが100%大好きなんだって。
おんなじだと思った。
私も夫のことを少ししか知らない。
だけど大好きだ。
私は基本的に、他人にあまり興味がない。
常に大好きな自分に興味津々で、
自分の本音は何なのか?
自分はどう生きたいか?
そのために今どう行動するか?
そんなことばっかり自分と向き合っているから、
他人のことまで深堀りしている暇がない。
その私が興味を持った珍しい相手が夫だった。
例えば、夫は決めつけることをしない。
「misatoらしくないね」とは言わない。
代わりに「珍しいね!」とは言う。
本当にちょっとしたことかもしれないけれど、
こういう言葉の選び方ができるところも、
かっこいいと思っている。
らしいとか、らしくないとか、
他人に決めつけられると
多かれ少なかれイラっとするもの。
ちょっと仲良くなると、
私のことを知った風に言う人もいて、
昔から私はそういうのが地味に嫌だった。
でも、夫が言うように「珍しいね!」なら、
夫から見て感じた事実を言っているだけだし、
「新発見だ!」という
ポジティブなニュアンスまで感じられるから好きだ。
私もこんな言葉選びができる人になりたいと思う。
夫と私は人間観が近くて、
人と人は分かり合えないものだと
明るく諦めているところが似ている。
自分と他人との間に、
境界線をしっかり持っているところも、
似ていると思う。
他人と自分の境界線が曖昧な人間、
つまり過干渉して侵略してくる人間のことが
嫌いなところも似ている。
人と人が分かり合うことが理想だと思っている人と、
私たち夫婦はきっと相性が悪い。
私たちは、
人と人がすべて分かり合うことなんてないという
大きな諦めを持った上で、
それでも向き合うことを投げ出さないという意志で
お互いの前に立っている気がする。
勝手に100%わかった気になるくらいなら、
たった5%を知ることができたと喜びたい。
95%知らなくても、
100%好きにはなれる。
存在を全肯定してくれることに感謝しているし、
私もそうだと伝えたい。
あなたが何をするかは知らないけれど、
あなたをいつでも応援しているよ!
何をするか知ることより大切なのは、
何をしようが何をしなかろうが
私はずっとあなたの
100%の味方だと伝えることだ。
〇〇するなら味方、〇〇しないなら応援しない…
そういう条件は特にないんだよ。
それが私から夫にあげられる愛情だと思っている。
これはいつも、
私が私自身に向けている愛情そのもの。
何をしても何をしなくても、
私は自分が大好きだ。
「〇〇できる自分なら好き」みたいな
制限や条件なんか何も無い。
子どもにとっても、そういう母でいたい。
相手の行動や思考をジャッジするんじゃなく、
それ以前の存在そのものを肯定したい。
それが愛情だと思っているから。
どうしたら子供にこの愛情を届けられるのか
まだ手探りで、よくわからないけどね。