29 直伝史料は置き手紙 | 広瀬氏族研究所発表の広瀬康述とその一族

広瀬氏族研究所発表の広瀬康述とその一族

40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

直伝史料は置き手紙

 

40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権一億円以上の評価あり)に換えられない成果です。高齢化により療養中です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します

 

1. 広瀬兵庫助から直伝の「広瀬家史料」は、後継の広瀬家一族への「置き手紙」です。広瀬兵庫助の苦難と活躍のリアルな一生が記されています。兵庫助本人しか知らない生の記録です。この広瀬兵庫助の事績の解明には約40年の年月を費やしました。
2. 広瀬兵庫助の子孫は数多くの真宗大谷派(東本願寺)所属の寺院を建立・開基しています。これらの寺院は広瀬兵庫助とその一族の事績を克明に記録し伝承を続けてきました。「広瀬家史料」は、子孫の寺院の過去帳の一つで、広瀬兵庫助の生の声が記録され今に伝えています。
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【広瀬兵庫助の簡単履歴】
1.生い立ちと氏名などについて
(1)広瀬兵庫助は美濃国(岐阜県) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624年3月15日に66歳で死亡しました。清和源氏の末裔と伝えられています。
(2) 広瀬兵庫助は主たる通称名で、親の命名による本名は広瀬康親です。広瀬兵庫助は、康親→兵庫→兵庫助→兵庫頭宗直→西了と時代の統治者から登用等の諸事情で名を変えています。
(3) 1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、信長家臣・稲葉一鉄に攻められ城主・康則は討死し落城しました。その後の2~3年間は一家離散状態となりました。
(4)これまでの調査で、広瀬兵庫助には①長男・太郎②次男・浄念③三男・善可の3人の兄弟がいました。太郎には子孫がいなかった。
 広瀬兵庫助の次男・浄念と三男・善可の子孫は、それぞれ真宗大谷派(東本願寺)の寺院住職を継承し広瀬兵庫助の伝記を残しました。
2.「広瀬兵庫助」の主な活躍について
(1) 1574年、兵庫助は羽柴秀吉の長浜城築城に協力しています。
 その後「本能寺の変」(1582年)後に秀吉の家族の避難警護に尽力し家臣となり近江国新庄城主となりました。(500石の知行)
(2) 1583年に戦功で1500石の知行となり、美濃国広瀬城主も兼務となりました。(秀吉の亡くなるまでの約16年間に亘り城主を務めました)
(3)豊臣秀吉が死亡して2年後、石田三成の誘いで関ヶ原の戦い(1600年9月15日)に出陣しましたが敗戦し、翌9月16日に自らを戦死とし福順寺(滋賀県長浜市高山町)に位牌を祀らせました。
(4)2年間の修行後、1602年に福順寺(長浜市高山町)住職・西了となりましたが、家族と元の家臣以外には広瀬兵庫助は戦死したとして極秘とされ、子孫の婚姻も元の家臣関係者の子孫以外とは縁を結ばなかったのです。(これが明治時代初期まで続いたという記録があります)


【「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」は同一人物として確認】
 「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」は同一人物です。この根拠について、次の通り確認をさせていただきます。
1.「広瀬兵庫助」について
 広瀬兵庫助末裔に伝わる広瀬家史料に基づく調査結果は、次の通りです。
(1)1558年生~1624年3月15日、66歳で死亡しました。
(2)美濃国(岐阜県)広瀬郷広瀬城主・広瀬加賀頭康則の次男、親の命名による本名は広瀬康親です。
(3)主たる通称名は「広瀬兵庫助」。城主としては、「近江国(滋賀県)新庄城主・美濃国(岐阜県)広瀬城主 広瀬兵庫頭宗直」と史料に明記されています。
(4)関ヶ原の戦いで敗れた広瀬兵庫助は、自らの意思で関ヶ原の戦いでの戦死として「豊昌院理山道義大居士 広瀬兵庫頭 新庄城主 慶長5年9月16日」の位牌をまつらせて、仏門に入り住職・西了となりました。
(5) 浄休寺寺誌などの広瀬家史料は、「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭」の事跡を区別なく記述しており、「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」とは同一人物扱いで明記し、兵庫助の代々の子孫には真実を正確に伝えています。
(6)仮に「広瀬兵庫頭宗直」が別人で関わりがなければ、広瀬家一族の事績を時系列順に記す広瀬家史料に、「広瀬兵庫助」とは他家の事績を記すことは全く意味のないことで、その必要はありません。これが確認をいたします重要なポイントであります。
2.「広瀬兵庫頭宗直」について
(1) 歴史書には「広瀬兵庫助」が活躍した同じ時代に、『飛騨国(岐阜県)高堂城主の広瀬山城守宗城(むねくに)の子(弟?)「広瀬兵庫頭宗直」がいた』とされますが、①宗城の子とする文献、②宗城の弟とする文献のそれぞれが複数存在しています。歴史上の人物の記述として、宗城の子か弟か明確でないことは、歴史書として基本的にありえないことであります。
(2) 『広瀬山城守宗城は、三木(後の姉小路)大和守自綱と戦い、宗城は戦死(1,582年1月27日)したが、兵庫頭宗直は行方不明となった』とあります。(東浅井郡志)→(事実は美濃国広瀬村の郷里へ帰ったのです)
(3)岐阜県揖斐川町の伝説によれば、『飛騨国の広瀬家は、美濃国の広瀬家の分家だという理由で、兵庫頭宗直は飛騨国を立ち去って、広瀬一族の先祖代々の墓地がある美濃国の広瀬村に移り住んだ』と伝えています。→帰郷したのが正しいのです。
(4)他の歴史書等に、その後「広瀬兵庫頭宗直」は、「井伊家に仕官した」という記事がありますが、井伊家について詳細に調査のところ徳川家臣で遠江国(浜松・井伊谷)に居住し、関が原の戦い(1600年)後に家康の命で彦根へ移っています。18年程の年代のずれがあります。→「井伊家に仕官した」も誤認記事です。
(5)彦根藩井伊家の全家臣団(283一族)を詳細に調査のところ、家臣団の中に広瀬姓は次の3家の一族がありました。
①広瀬郷左衛門(2000石)一族=郷左衛門は徳川家臣から井伊家臣になったとあります。郷左衛門が広瀬兵庫頭と誤認された可能性が高い。
②広瀬助之進(200石)一族。 
③広瀬清兵衛(180石)一族。
(6)結論として「広瀬兵庫頭宗直」に関して、井伊家の家臣に該当者が見当らず、「井伊家に仕官したという」事実はありません。
(7)以上のとおり、正確に事跡を把握していない「広瀬兵庫頭宗直」に関する歴史書記事の多くには、「生年・没年不明、金森長近への反乱に敗れて他国に逃れ行方不明」などの推定による誤認記事がみうけられるのが実態です。
【広瀬兵庫助と広瀬兵庫頭宗直は同一人物】解説
 また、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐郡揖斐川町)の伝説によれば、『飛騨国の広瀬家は、美濃国の広瀬家の分家だという理由で、兵庫頭宗直は飛騨国を立ち去って、広瀬一族の先祖代々の墓地がある美濃国の広瀬村に移り住んだ』と、伝えられています。→(事実は美濃国広瀬村の郷里へ帰ったのです)
 「東浅井郡志」には、「飛騨国治乱記などの様々な説に従って判断しても(兵庫助と兵庫頭宗直についての活躍した)年代が一致することは、(通称名までもが「兵庫」と一致しており)どうすることも出来ない事実です」と、書かれています。
天正10年(1,582年)1月27日(事件日:「東浅井郡志」は「飛騨国治乱記」から引用記述)、三木(後の姉小路)大和守自綱と戦い、広瀬宗城は戦死しました(実は、だまされて殺害された)が兵庫頭宗直は行方不明となった』と、あります。行方不明ではなく「広瀬兵庫助」と「広瀬兵庫頭宗直」とは同一人物です。
【広瀬兵庫助と広瀬兵庫頭宗直は同一人物】
 日坂古文書や各種文献にあるように、共に「広瀬兵庫」を若年時の通称名として名乗っていることから、「兵庫頭宗直」は「兵庫助」と同じ人物であると判断されます。(注:兵庫助は天正9年(1,581年)頃に、分家である飛騨国広瀬宗城の養子となり兵庫頭宗直を名乗ったとみられます)
 さらに、慶長5年(1,600年)9月15日の関ヶ原の戦い後に「兵庫助」は、観念寺(後に福順寺と改称=滋賀県長浜市高山)へ入り、自らの意思で戦死者として「豊昌院理山道義大居士 広瀬兵庫頭 新庄城主 慶長5年9月16日」の位牌をまつらせ住職により髪を剃り、位牌には「広瀬兵庫助」とせず「広瀬兵庫頭」と記入したことは、この2人が同一人物であることの証拠です。
【秀吉他界後の広瀬兵庫助】
 1598年に秀吉が死亡、2年後に関ヶ原の戦いとなりました。兵庫助は石田三成から出陣の催促を受け、鉄砲隊7百人を中心の約千人の大部隊で関ヶ原の戦いに赴きました。
 石田三成は兵庫助に買収金の慶長小判100枚を預け兵庫助・親族で日坂村(岐阜県)郷士・高橋修理の説得を依頼。修理は「百姓を天職とするので、先祖の家訓に逆らえない」と誘いを強く断ったと伝えられています。高橋一族は戦争に巻き込まれず今も立派な家系が続いています。
 広瀬兵庫助の親族に徳山村(岐阜県)の徳山五兵衛がいました。五兵衛は徳川隊で戦いに勝利して、徳川家康から5000石を賜りました。石田三成から兵庫助が受け取ったという軍資金で黄金の鶏の伝説が残されています。関ヶ原の戦い後の兵庫助の行動が気になるところです。  
【広瀬兵庫助と関ヶ原の戦い前】
関ヶ原の戦い前の話、石田三成は兵庫助に当面の支度金(買収金)として慶長小判100枚を預け、兵庫助の親族で美濃国日坂村の郷士・高橋修理の説得を依頼しました。修理は「百姓を天職とするので先祖の家訓には逆らえない」と再三の誘いを強く断ったといわれます。

【広瀬兵庫助と「関ヶ原の戦い」の詳報】
兵庫助は西軍・石田三成の誘いに応じ、1600年9月15日(新暦10月下旬)関ヶ原の戦いに出陣しました。東軍・徳川家康に内通の西軍・小早川秀秋は家康の大砲を受け東軍に寝返り、西軍は総崩れで敗戦しました。
関ヶ原の戦いの詳細は次の通りです。また、戦国の世とはいえ兵庫助の親族・徳山五兵衛は東軍で戦ったのです。
 慶長5年(1,600年)9月15日(当時は旧暦の時代で、現在の暦では10月下旬にあたります)の「関ヶ原の戦い」の状況は、卯刻(午前6時)に石田三成が率いる西軍10万人の軍勢と、徳川家康が率いる東軍7万5,000人の軍勢が、それぞれの陣に着いて対峙しましたが、辺りは深い霧に包まれていました。
 辰刻(午前8時)になって、ようやく霧が晴れて戦いが始まりました。初めは西軍が優勢で、東軍は劣勢に戦況が推移しました。その後しばらくの間、小競り合いが続き大きな動きはありませんでした。
 西軍の三成は、西軍側につくとしながら全く動かない小早川秀秋(秀吉の夫人の甥)隊を動かそうと、総攻撃を合図する狼煙をあげ、大きく戦況が動き始めようとしました。
 対する東軍の家康は桃配山に陣を構え、西軍側にいながら家康に内通しており、動きをみせない秀秋隊を東軍につかせようと揺さぶる作戦にでました。ついに、家康は午刻(正午)過ぎ、松尾山に陣取る秀秋隊へ大砲を撃ち込めと命じたのです。それまで、西軍につくべきか東軍につくべきかと動揺をしていた秀秋は、東軍からの砲撃に気が動転して東軍への寝返りを決意、戦いの形勢は一気に逆転しました。
 東軍が優勢になると、西軍からは東軍への裏切りが続出し始めました。西軍の島津義弘隊が独自の行動をとり、東軍の陣中を強行に中央突破して伊勢街道(国道365号)を桑名(三重県桑名)方面への脱出をはかると、ついに西軍は総崩れの状態となりました。
 未刻(午後2時)過ぎに、天下分け目の戦いは決着し、家康への忠誠を確固たるものとした東軍が大勝利しました。
 余談になりますが、兵庫助の親族で美濃国徳山村(岐阜県揖斐郡揖斐川町)に徳山五兵衛がおり、五兵衛はこの戦いで東軍の徳川隊として戦いに加わっていました。戦国の世とはいえ、親族が敵味方に分かれ戦わねばならないという現実がありました。
 戦い決し、関ヶ原から北国街道(国道365号線)を長浜方面へ向けて、命からがら逃げていく大勢の兵隊がいました。西軍の三成大将隊の部隊長を務めた兵庫助が率いる部隊です。西軍は途方を失って我先にと敗走し、三成の敗走を見とどけての同じ行動なのです。
 後日、三成は東軍側の追っ手により捕われの身となり、家康の命で処刑されました。
 兵庫助隊長は、負傷した仲間たちを心配しながらの敗走です。東軍側の追っ手を振り払いながら、その日のうちに新庄城へ立ち返り兵士達を休めて傷を治療 することとしました。だが、新庄城でゆっくりと休む暇はありませんでした。兵庫助は、これからどう生きていこうかと絶望のどん底でした。
 翌16日朝、近江国高山(滋賀県長浜市)の領地へ出発しました。
 その日の夕刻には、高山にある広瀬家の館へ到着しました。道中、兵庫助は「戦いに敗れたからには、明日からは生まれ変ることにする」と決意していました。早速、広瀬の館の隣にある観念寺(後に福順寺と改称)へ入り、自分を戦死者として「豊昌院理山道義大居士広瀬兵庫頭新庄城主 慶長5年9月16日」の位牌をまつらせ、住職により髪を剃ったのです。 
 しかし、兵庫助は近江国高山に長く滞在することはできませんでした。美濃国の広瀬村に残した家族や村人のことが気になっていました。翌日、行く先を告げずに家臣とともに旅立っていきました。
 兵庫助の戦い後の2年の心の内を探ります。敗戦の失意を家族との交流で心を癒し、次の夢の実現に向けて着々と実行したことでしょう。隠した黄金の鶏等の軍資金の残りを掘り出して小判に替え安全な場所へ保管したのです。生き残りを賭けた今後の活動資金として重要な意味をもつものでした。
 兵庫助は剃髪し仏門に仕える身となりました。幼少から仏門に仕える弟・了玄(浄休寺開基)の助言と指導を受け、住職になるため約2年間の修行をしたのです。東本願寺・所属で福順寺の住職・西了として身も心も変身しました。いつしか戦う夢は仏門に仕え変心したのです。
 兵庫助の変心後の疑う余地のない行動は、軍資金を有効活用して「世のため人のため」の事業を推進しました。兵庫助の一族による寺院の建立・開基の実現に取り組み、後を子孫に託した。兵庫助は、戦乱のない安心して生活できる平和な世を夢みていたのです。 

【広瀬兵庫助は住職・西了に】
1600年の関ヶ原の戦いに敗れた兵庫助は、2年後の1602年に「永遠の平和」への祈りを目指して、東本願寺所属寺院で福順寺(滋賀県)の住職・西了として生まれ変わりました。元の領民(近江・美濃)と一族の繁栄を祈り続けたのです。その心は今も着実に受け継がれ息づいています。
【広瀬兵庫助が住職・西了となってからの記録】
広瀬兵庫助の記録は、1602年に福順寺(滋賀県)住職・西了として再出発後は残されていません。関ヶ原の戦いの戦死者として位牌を祀り意識的に記録を残さず仏門一筋で法灯を守ることに専念。兵庫助=西了が激動の人生を閉じたのは1624年で、66歳でした。

【「関ヶ原の戦い」後の兵庫助と、その一族】  
 兵庫助は、関ヶ原の戦い[慶長5年(1,600年)]で西軍に属して敗戦し、自分を戦死者とし一時行方不明となりましたが、2年後の慶長7年(1,602年)11月になって、元の家臣とともに元の領地である近江国高山(滋賀県長浜市)へ入り、福順寺の住職「西了」という新しい名前で仏様に仕えたのです。兵庫助の空白の2年間における現実と心の葛藤は、新たに生きる道を探す旅「どん底からの脱出」だったのです。
 かつて兵庫助が城主だった近江国新庄村付近で、その子孫により仏教の布教を行った寺院は、浄休寺(滋賀県)、啓福寺(滋賀県)、光専寺(滋賀県)の三寺で、いずれも家紋は「五三の桐」としました。啓福寺は、後に真敬寺(岐阜県)、真念寺(岐阜県)、啓竜寺(滋賀県)を開基しています。

【広瀬兵庫助・末裔の後継者問題】
(1)兵庫助のひ孫「圓哲」は、1722年に真敬寺(岐阜県垂井町)を建立・開基しましたが、真敬寺4世と5世は2代続けて女子のみの誕生でした。
(2)真敬寺5世の娘・ハツは、兵庫助・末裔で浄休寺(滋賀県米原市)6世・了恵のひ孫・秀山を1831年に真敬寺へ婿養子として迎えました。
(3)真敬寺6世のハツは、古くさかのぼって祖先が同じであることを確認して(共に兵庫助を先祖とする)夫婦となったのです。
(4)江戸時代の幕末に真敬寺の後継者問題への取り組みとして、広瀬一族から婿養子を迎えるという、兵庫助一族の歴史に残る将来を見据えた行動がありました。

【「広瀬兵庫助」末裔の酒蔵がありました】
(1)広瀬家に伝わる史料「真敬寺古文書」(1850年頃の広瀬家系図などが記録) には、『広瀬兵庫助末孫 中古は広瀬の酒屋なり。今は広瀬半兵衛と申す』と、あります。
(2)記述の「中古」は1700年代頃とみられ、「兵庫助子孫の酒屋」とは酒蔵(酒造業)です。兵庫助の子孫で1850年頃に酒造業の「広瀬半兵衛」がいたという記録です。
(3)兵庫助に縁のある近江国(滋賀県)と美濃国(岐阜県)に、「広瀬の酒蔵(酒造業)」が今も営まれていないかインターネット等で調査しましたが、現時点では見当たりません。
(4)「広瀬兵庫助」縁りの酒蔵(酒造業)が、何らかの縁者等によって酒蔵を継承し、縁の地で今も営みを継承・繁栄していることを願っています。

【広瀬兵庫助の末裔は、現代の広瀬兵庫助】 
 私が、広瀬兵庫助の末裔であることを認識したのは1975年頃で、父の実家・真敬寺(岐阜県)で発見された「真敬寺史料」に、兵庫助・末裔の系譜が記されていたからです。
 真敬寺第5世「大道」の娘「ハツ(兵庫助の啓福寺~真敬寺系末裔)」は、真敬寺へ入寺した「秀山(兵庫助の浄休寺系末裔=後の真敬寺第6世)」と結婚しました。秀山・ハツ夫婦は共に兵庫助の正統の子孫で、兵庫助の遺伝子(DNA)を増大する継承者となったのです。
 父は、1975年頃に先祖の「真敬寺史料」の系譜を調査したところ、私の母も兵庫助・末裔であることが判明したのです。両親は結婚してから約40年が経って、共に兵庫助の正統の子孫であることが分かったのです。 

【真敬寺7世:広瀬慈声のエピソード】
(1)京都の東本願寺に仕えた広瀬兵庫助の末裔・慈声は、毎週月曜日の早朝に真敬寺(岐阜県垂井町)から人力車で京都へ向かい、週末の金曜日に自坊へ帰るという単身赴任の生活でした。
(2)広瀬慈声は勤勉な読書家で、真敬寺から人力車で京都のご本山(東本願寺)への往復時には片時も本を手放さなかったと伝えられています。
(3)当時(明治時代初期)は鉄道が開通しておらず、長浜港経由で京都へ向かいました。真敬寺(人力車)→長浜港(舟)→大津港(人力車)→京都・東本願寺へと1日かけての出勤でした。
(4)広瀬慈声は、ご本山(東本願寺)において指導的立場で活躍しましたが、残念なことに病のため明治14年(1881年)に43歳という若さで他界しました。
【広瀬兵庫助・末裔の真敬寺第7世住職の広瀬慈声】
(1)真敬寺(岐阜県垂井町)第7世住職の広瀬慈声(じしょう)の両親(6世住職・秀山と6世坊守・ハツ)は、共に広瀬兵庫助が先祖になります。
(2)両親から兵庫助のDNAを受け継いだ広瀬慈声は、明治時代初期に若くして京都・東本願寺のご本山に仕え、仏教学研究と布教活動の指導的立場を務め活躍したと伝えられます。
(3)真敬寺7世:広瀬慈声の活躍により、真宗大谷派(東本願寺)と広瀬家との深い絆が確認され、広瀬兵庫助一族の事績の解明も進みました。

【広瀬兵庫助・調査の最新情報】
 「広瀬兵庫助(西了)」に関する最近の調査で、次の通りの最新情報がありました。
1.新たな事跡の発掘について(最新情報)
(1)天皇陛下に江州米の献穀を記載した「記録写真図録」について
近年、広瀬兵庫助の末裔ではないかと気づいた中村家(会社社長・東京在住)に所蔵の紀元2600年(1940年)を記念した天皇陛下への江州米を献穀時の「記録写真図録」の記事によって、中村家のルーツが広瀬兵庫助の末裔であることを証する決定的な記述を発見しました。
(2)「記録写真図録」の記事の要点について
A. 中村家の先祖で近江源氏の郷士「広瀬兵庫」は旧・六荘村(現・ 長浜市室町)に永住しており、広瀬兵庫助・屋敷跡の記述がありました。
B,記事には1570年の「姉川の戦い」において浅井長政の家臣として織田信長軍との戦いで敗戦との記述がありますが、1570年の「姉川の戦い」に出陣したことは、広瀬兵庫助に関する他の古文書等の記事には全くなかったのです。
1570年当時、兵庫助は12歳である為に出陣は困難であると判断しています。何らかの特別の事情(戦国時代の生き残り策)による子孫への(事実とは異なる)伝承を行ったと推測しています。
結論は、他の広瀬家の史料や古文書等の記事通り「関ヶ原の戦い(1600年)に出陣」したのが正しいと判断しました。
C.「広瀬兵庫」の記述には「兵庫頭」と表現しており、これは城主の職名を明記しています。他の文献等で広瀬兵庫助は、城主としては「広瀬兵庫頭」を名乗っており、このたびの調査で決定的な新事実が判明しました。
D.記述中の「兵庫頭の遺子・広瀬兵右衛門」は、難を逃れる為「中村」姓を称し、農業を家業として精励したとあります。
「広瀬兵右衛門」=「中村兵右衛門」の存在は、新事実の発掘です。
E.これまで広瀬兵庫助には、長男・太郎、次男・浄念、三男・善可の存在が判明していましたが、ここで四男・兵右衛門の存在が判明したのです。

「広瀬兵右衛門」=「中村兵右衛門」の存在は、新事実の発掘です。その後の調査で、中村兵右衛門には子がなく柴田家から養子を迎えていたこと(中村家本家の末裔情報)が判明しています。


2. 広瀬兵庫助の屋敷跡について(過去に判明している情報)
(1) 滋賀県長浜市室町にある自治公園が、広瀬兵庫助の屋敷跡です。
(2)所在地は、長浜市室町の「日枝神社」のすぐ西隣に位置しています。空き地風の公園となっており、近くに広瀬兵庫助ゆかりの古墓と地蔵堂が祀られています。
(3)1943年(昭和18年)当時の滋賀県坂田郡室村(現・長浜市室町)を含む坂田郡六荘村が長浜町などとの合併で長浜市となったものです。

【参考文献】
広瀬兵庫助一族に関する歴史と伝記は、次の文献を参考にしました。浄休寺寺誌・真敬寺史料・願生寺史料・姉小路と広瀬・長浜城歴史博物館史料・東浅井郡志・岐阜県史・岐阜県郷土偉人伝・揖斐郡史・岐阜県百科事典・奈良県の歴史・日本史年表地図・広辞苑など多数の著書。

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研究者:愛知県春日井市藤山台 

広瀬氏族研究所代表広瀬まさのり 

 

 

                 広瀬家伝 ー29ー