28 どん底から生き残る強い心 | 広瀬氏族の広瀬康述とその一族

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40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

どん底から生き残る強い心

 

広瀬氏族研究所代表です。40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権一億円以上の評価あり)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。心豊かに行動したいと思います。大切なことは、ご先祖様が何時もお守り頂いているから今日の私が生かされているということです。何よりもご先祖様への感謝の念が大切です。

 

広瀬兵庫助の祖父から三代(祖父の康利・父の康則・兵庫助)続けて運命を変えた三大事件がありました。

① 最初の大事件と広瀬家の新・家訓
兵庫助の祖父・康利が第16代城主の1534年2月に、一揆の先頭に立つよう要求した領民で百姓頭ら10人から幼少の長男・康明(兵庫助の伯父)が人質として拉致され殺害された最初の大事件です。(要求に対応しなかったため)

天文2年(1533年)には、摂津国(現在の大阪府の一部と兵庫県)で一向一揆がありました。これが契機となり、近畿・中部地方各地で領民の百姓頭らからの要求で一揆へと繋がったとみられます。美濃国広瀬村百姓も同様な要求だったと思われます。

兵庫助の祖父・康利が最初の大事件の反省から『領民からの苦難に伴う城主(地頭・地侍)への要請には、適切に応えるよう』を家訓としていたことは言うまでもないことです。

1488年頃から一向一揆(浄土真宗の一揆)が地頭・地侍・国人が首謀して多発し、信長の時代が終わるまで約1世紀も続いていました。秀吉の時代になり柔軟政策で一揆は衰退しました。

② 第2の大事件とその後の対応
1572年6月の兵庫助の父・康則が第17代城主の時、信長家臣・稲葉一鉄による討ち死に落城・領地没収の第2の大事件です。


1576年、兵庫助3兄弟は本願寺の顕如上人に拝謁し、1572年6月の信長家臣・稲葉一鉄による討ち死に落城・領地没収の第2の事件の無念を訴えた際に、兵庫助3兄弟らは城主(地侍)でもないが民心をしっかり掴んでいる立場から『領民からの苦難に伴う要請には、適切に応える家訓』を基に、一向一揆を支援する本願寺の戦士として協力する約束をしたとみられます。

最初の大事件・第2の大事件と本願寺の戦士として協力することはリンクしており、兵庫助のご先祖様の意に沿うための重要な判断材料でした。

信長とは敵対関係にあった広瀬兵庫助一族は、1582年に秀吉の家臣となって兵庫助の立場は奇異な関係です。秀吉の柔軟政策とも関係あると思いますが、秀吉は信長が殺害を命じた者を殺害せず友人に預けて救った話もあり、秀吉は人材活用の名人でもあったと認識しています。

広瀬兵庫助史料から推察するに兵庫助は、秀吉と夫人「おね(北政所)」との相性が良かったと思います。1583年の賤ヶ岳の戦いでは家臣らは戦功を称えられ知行を受けていますが、史料には兵庫助だけは、秀吉が賤ヶ岳の戦いで不在の秀吉の館で「おね(北政所)」の警護など身の回りのお世話をしたことで知行を受けたと記されています。実際は出陣していないのです。【超秘話】

広瀬兵庫助が秀吉家族の逃避行を警護支援したことは、称名寺の性慶の進言がなければ別人が対応したことです。進言の対象となる広瀬兵庫助の人格がなす運命的な出来事としかいえません。

③ 第3の大事件
広瀬兵庫助が関ヶ原の戦いで敗戦したことです。

 

研究者:愛知県春日井市藤山台 

広瀬氏族研究所代表広瀬まさのり

 

 

                   広瀬家伝 ー28ー

 

 

 

                  真敬寺(岐阜県垂井町)