30 広瀬郷左衛門景房は、武田家臣から後に徳川家臣 | 広瀬氏族研究所発表の広瀬康述とその一族

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40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

広瀬郷左衛門景房は、武田家臣から後に徳川家臣

 

40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

 広瀬兵庫助の子孫に伝承の広瀬家史料と関連した調査研究から、次のことが判明しています。広瀬康述を頂点とした広瀬一族の活躍が浮かび上がります。この内容は、新情報の公開があります。

広瀬兵庫助の先祖となる美濃国広瀬郷(岐阜県)広瀬一族の初代当主・広瀬康述の子孫で、第14代当主・康平の弟の広瀬安周(別名・安近)は、山梨県(甲斐国)へ移り武田信玄の家臣となっています。
 
1. 広瀬康述は、1200年に奈良県(大和国広瀬郷)から岐阜県(美濃国広瀬郷)へ移り地頭として、この地の支配者となりました。美濃国広瀬郷は現・岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内(旧・坂内村)です。広瀬康述は、この地における広瀬一族の初代当主です。広瀬兵庫助は、第17代当主(城主)・広瀬康則の次男になります。

2. 広瀬康平が第14代当主の時代に、康平の弟である広瀬安周(別名・安近)は山梨県(甲斐国)へ移り、武田信玄の家臣となっています。広瀬家史料には、安周の子孫が武田家臣から後に徳川家臣となり、更にその後、井伊家臣として仕官したことが明記されています。

3. 広瀬安周の子孫にあたる広瀬郷左衛門景房は、武田家臣から後に徳川家臣となり、その後、井伊家臣として活躍しています。

4. 広瀬郷左衛門景房の弟で広瀬将監正直は、1673年に山梨県(甲斐国)から大分県(豊後国)へ移っています。広瀬将監正直の子孫には、広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘の兄弟がいることで知られています。

5. 大分県日田市には、この地を中心に活躍した正直の子孫など・広瀬一族の活躍を伝える「廣瀬資料館」があります。

 

研究者:愛知県春日井市藤山台 

広瀬氏族研究所代表広瀬まさのり

 

 

 

 

 


 広瀬家史料は、一族への置き手紙

 

1. 広瀬兵庫助から直伝の「広瀬家史料」は、後継の広瀬家一族への「置き手紙」です。広瀬兵庫助の苦難と活躍のリアルな一生が記されています。兵庫助本人しか知らない生の記録です。この広瀬兵庫助の事績の解明には約40年の年月を費やしました。
 

2. 広瀬兵庫助の子孫は数多くの真宗大谷派(東本願寺)所属の寺院を建立・開基しています。これらの寺院は広瀬兵庫助とその一族の事績を克明に記録し伝承を続けてきました。「広瀬家史料」は、子孫の寺院の過去帳の一つで、広瀬兵庫助の生の声が記録され今に伝えています。

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【広瀬兵庫助の簡単履歴】
1.生い立ちと氏名などについて
(1)広瀬兵庫助は美濃国(岐阜県) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624年3月15日に66歳で死亡しました。清和源氏の末裔と伝えられています。
(2) 広瀬兵庫助は主たる通称名で、親の命名による本名は広瀬康親です。広瀬兵庫助は、康親→兵庫→兵庫助→兵庫頭宗直→西了と時代の統治者から登用等の諸事情で名を変えています。
(3) 1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、信長家臣・稲葉一鉄に攻められ城主・康則は討死し落城しました。その後の2~3年間は一家離散状態となりました。
(4)これまでの調査で、広瀬兵庫助には①長男・太郎②次男・浄念③三男・善可の3人の兄弟がいました。太郎には子孫がいなかった。
 広瀬兵庫助の次男・浄念と三男・善可の子孫は、それぞれ真宗大谷派(東本願寺)の寺院住職を継承し広瀬兵庫助の伝記を残しました。
2.「広瀬兵庫助」の主な活躍について
(1) 1574年、兵庫助は羽柴秀吉の長浜城築城に協力しています。
 その後「本能寺の変」(1582年)後に秀吉の家族の避難警護に尽力し家臣となり近江国新庄城主となりました。(500石の知行)
(2) 1583年に戦功で1500石の知行となり、美濃国広瀬城主も兼務となりました。(秀吉の亡くなるまでの約16年間に亘り城主を務めました)
(3)豊臣秀吉が死亡して2年後、石田三成の誘いで関ヶ原の戦い(1600年9月15日)に出陣しましたが敗戦し、翌9月16日に自らを戦死とし福順寺(滋賀県長浜市高山町)に位牌を祀らせました。
(4)2年間の修行後、1602年に福順寺(長浜市高山町)住職・西了となりましたが、家族と元の家臣以外には広瀬兵庫助は戦死したとして極秘とされ、子孫の婚姻も元の家臣関係者の子孫以外とは縁を結ばなかったのです。(これが明治時代初期まで続いたという記録があります)

 

【広瀬兵庫助と「本能寺の変」直後の活躍】
 広瀬兵庫助は、秀吉から次の通り功績を称えられています。
①甲津原文書=秀吉家族・避難警護(1582/6/19付)知行書500石(高山・甲津原・杉野)
②広瀬文書=戦争功績(1583/11/12付)知行書1500石(美濃国広瀬・坂本、近江国新庄・高山・甲津原・杉野)
 広瀬兵庫助は、「本能寺の変」(1582/6/2)直後に長浜城・使者からの要請を快諾し、秀吉家族を美濃国広瀬への避難警護のお世話をする予定でしたが、長浜城~甲津原へと来た所で旧知の寺院で約10日間の滞在をしていただき警護と逃避行の慰労に努めました。
 甲津原では、安全が確認されるまでの間、秀吉の家族(母・夫人・夫人の親族)の避難生活の寂しさを慰め、手厚くおもてなしと警護に努めました。
 幸いにも甲津原には、猿楽・楽人の家元が住んでおり秀吉・家族の慰労ができ、兵庫助は誠意をもって一行のお世話をして、その役割と責任を立派に果たしました。
 広瀬兵庫助は称名寺の性慶から白羽の矢が立てられなければ活躍の機会もなかったのです。
 性慶は、近江国小谷村(滋賀県長浜市)にある称名寺・住職の性宗の子でした。元亀3年(1,572年)に江北(近江国の北部地区)10ヵ寺の一揆が起こり、その首謀者が称名寺の性慶でした。その寺院は信長の命で焼き討ちとされて、性慶はと捕らわれの身となりました。
 性慶らが中心となって一揆を起した元亀3年(1,572年)といえば、兵庫助の父・康則が稲葉一鉄の攻撃で落城した年です。兵庫助の祖父・康利の時代から守護大名(戦国大名)の台頭に警戒をしていた関係者(国人・地頭・浄土真宗などの有力な寺院の住職)は、内密に様々な情報交換をしていたのです。
 こうしたことから、称名寺の性宗・性慶の親子も寺院関係者として、以前から美濃国の広瀬城主であった康則の一家に注目しており兵庫助の活躍ぶりや評価などの動向を十分に承知していました。
 そうして、天正10年(1,582年)に「本能寺の変」が起きました。この時、性慶は秀吉家族の避難先の話を聞き、そのお世話役として兵庫助が最適であると進言したのです。性慶は、こうした機転により兵庫助とともに、秀吉家族らの避難のお世話をしたのです。

 

【「本能寺の変」直後に広瀬兵庫助の活躍の詳報】
「本能寺の変」直後の状況
 「本能寺の変」直後の状況については、史実に基づき東浅井郡志(発行:滋賀県東浅井郡教育会)などの書物や浄休寺寺誌など広瀬家の古文書に詳細に書かれています。その後の調査を含め、これらを総合的にまとめた内容は、次のとおりです。
 天正10年(1,582年)6月2日の早朝、「本能寺の変」(京都の本能寺で織田信長の家臣・明智光秀の反乱による突然の攻撃で信長が負傷して自害した)が起きました。(当時は旧暦の時代で、現在の暦では7月中旬にあたります)
 この直後の状況は、2日の巳刻(午前10時)になって京都の本能寺での異変が、風の便りに信長の居城である近江国の安土城〔滋賀県近江八幡市安土町=平成22年(2,010年)3月21日から近江八幡市〕に伝わってきましたが、はっきりとしたことは分からないまま時間がたちました。
 その日の未刻(午後2時) になって、ようやく京都の本能寺から寺の使用人の男達が安土城に駆けつけて実情を伝えたのです。城内は熱湯で手を洗うような驚きの騒ぎとなり、城の留守番役家老の蒲生右兵衛太夫は皆の動揺をしずめようとしましたが治まらなかったのです。
 2日の夜になって、美濃国(岐阜県)や尾張国(愛知県西部)出身の武将や武士たちが多数で安土城から逃亡を始めました。
 やっと、3日の卯刻(午前6時)になり、信長の夫人と側室(第二夫人)や子供たちが安土城から隣村の蒲生郡日野村(滋賀県蒲生郡日野町)に避難することができたのです。
 一方、羽柴秀吉の居城である長浜城に「本能寺の変」の知らせが入り、秀吉の母(なか)と夫人(おね)に伝わったのは、丸一日たった3日の朝のことでした。
 長浜城には、秀吉の母と夫人の他に秀吉の親族たちが身を寄せていました。そして秀吉の母(なか)と夫人(おね)を、夫人の兄・木下家定や夫人の姉の夫・浅野長政たちで警備護衛していたのです。
 ところが、今にも反乱者の明智光秀は長浜城を攻める動きにある中で、秀吉は兵士とともに備中国(岡山県)の高松城攻めで不在のため、長浜城には攻撃に対応できる十分な警備護衛が可能な者は全くいなかったのです。
「本能寺の変」直後の兵庫助の活躍
 この時、長浜城に罪人として軟禁されていた近江国小谷村(滋賀県長浜市)の称名寺・住職の子で性慶という僧の機転により、お城の留守番役たちは避難の援助を依頼するために、急いで使いの者を美濃国広瀬村の広瀬兵庫助の館へ馬で走らせて、兵庫助を迎えに行かせました。
 兵庫助は状況を理解し快く引き受けて、兵庫助が警護して治安が落ち着くまでの間、秀吉の母と夫人を長浜城から美濃国広瀬村へ避難していただくこととなったのです。
 急いで避難する人たちの一行は、秀吉の母(なか)と夫人(おね)、夫人の兄(木下家定)とその夫人、夫人の姉(やや)とその夫(浅野長政)でした。当初の予定では、長浜城から美濃国広瀬村までの道中を兵庫助が警護して広瀬家の館へ避難することとしていました。
 3日の午前中に、一行は称名寺の性慶の先導により長浜城を早々に出発しました。秀吉の母と夫人は、下げ髪うちかけ姿で輿(長柄でかつぐ乗り物)に乗り、秀吉夫人の兄・木下家定は武士の正装をした裃侍姿でした。
 この時、木下家定には第4子の「秀秋」(3歳で秀吉の養子となった=後の小早川秀秋)がいましたが、7歳と幼く長浜城 城下町の総持寺(滋賀県長浜市)という寺院へ、供の家臣とともに預けられました。
 避難する人達の一行は、長浜城から上草野村岡谷(滋賀県長浜市)へと来た所で、広瀬村から急ぎ駆けつけた兵庫助と合流することができ、兵庫助は鎧武者の姿でお出迎えをしました。
 ここからは、兵庫助の警護のもとで七廻り峠、東草野村吉槻(滋賀県米原市)のルートで移動し曲谷(滋賀県米原市)に着いたのは、3日も陽の傾きかけた頃でした。
 ちょうど、この地に白山神社が祀られており、この神社で今後の安全祈願のご祈祷を済ませたのです。そうこうする内に辺りが薄暗く夕やみがせまる頃となり、この里人(村人)の長義という庄屋(村長)の計らいにより、一行の隠れ家として相応しい8畳ほどの岩屋(天然にできた岩間の洞穴)で避難の最初の一夜を過ごすこととなりました。
 翌4日になり、近江国甲津原(滋賀県米原市)に入りましたが、ここから目的地の広瀬村にたどり着くには5里(約20km)の遠い距離にあったのです。
 5里(約20km)といえば、平地を成人男性が徒歩で5時間位はかかる距離で、ここは厳しい山道であり女性の足では10時間以上はかかるとみられました。
 さらに、輿を降りて徒歩で辛抱峠(この辺りの人たちは新穂峠のことを、体力的にも精神的にも辛抱強く峠を越さなければならない事から、新穂峠に良く似た通称で辛抱峠と呼んでいた)のある険しい山を越えなければならなかったのです。険しい山道を移動するのは女性にとっては過酷な状況だと思われたからです。
 こうした様々な状況から安全な避難行動をとるための判断として、一行は甲津原にある兵庫助の知り合いの寺で暫くの滞在をし、兵庫助は警備護衛に専念することとなったのです。
 甲津原には、兵庫助の良く知る寺がありました。それは、8年前の天正2年(1,574年)に長浜の秀吉へ大量の竹を輸送した際に利用したルートに、この寺があったのです。兵庫助が美濃国の日坂村から近江国の長浜へ幾度も竹を輸送した際には、日坂村から辛抱峠(新穂峠)を越えて、この甲津原を通り長浜へ入いるのが最適なルートで慣れた道でした。
 当時は何回もこの寺に宿泊したことがあり、住職やその家族とは親しい付き合いのある寺でした。人生とは本当に不思議なもので意外なところで、お世話になった人間関係や経験が役に立ったのです。
 参考までに、交通手段が未整備であった古い時代において、寺院は宗教上の重要な役割の他に社会福祉への貢献として、現在でいえばホテルのような宿泊施設の提供もありました。
 そして、一行の身の回りをお世話するために、広瀬村の兵庫助の館へ使いを走らせて、この寺まで食料や身の回りの品を急いで運び込ませました。さらに、兵庫助の手助け役の人たちが駆けつけて、精一杯の手厚いおもてなしをすることとなりました。
 この日から安全が確認されるまでの約10日間、兵庫助は秀吉の母と夫人を猿楽(仮面をつけて、面白い言動をする古くからの芸能)などで避難生活の寂しさを慰め、手厚くもてなし警護に努めたのです。
 幸いにも甲津原には、以前に春日(岐阜県揖斐郡揖斐川町春日)に住んでいた楽人(舞楽の芸能者のこと)で観世流(結崎流)の太夫(家元)が住んでおり、子孫が代々にわたり伎を伝えていたのです。こうして、兵庫助は「まじめに・こつこつ・一生懸命」「世のため人のため」と、誠意をもって一行のお世話をして、その役割と責任を立派に果たしたのでした。
 ところで、兵庫助は称名寺の性慶から白羽の矢が立てられなければ活躍の機会もなかったので、その辺りを解明してみたいと思います。
 性慶は、近江国小谷村(滋賀県長浜市)にある称名寺・住職の性宗の子でした。元亀3年(1,572年)に江北(近江国の北部地区)10ヵ寺の一揆が起こり、その首謀者(中心的な役割の人物)が称名寺の性慶でした。
 その寺院は信長の命で焼き討ちとされて、性慶は捕らわれの身となりました。その後、秀吉が長浜城を築城し、性慶は長浜城の牢屋に入れられていました。
 性慶らが中心となって一揆を起した元亀3年(1,572年)といえば、兵庫助の父・康則が稲葉一鉄の攻撃で落城した年です。兵庫助の祖父・康利の時代から守護大名(戦国大名)の台頭に警戒をしていた関係者(国人や地頭という領地の支配者、浄土真宗などの有力な寺院の住職)は、内密に様々な情報交換をしていたのです。
 こうしたことから、称名寺の性宗・性慶の親子も寺院関係者として、以前から美濃国の広瀬城主であった康則の一家に注目していました。また、性慶は甲津原の寺の住職とは旧知の仲で捕われの身となる前に、この住職を通じて兵庫助の活躍ぶりや評価などの動向を十分に承知していました。
 そうして、天正10年(1,582年)に「本能寺の変」が起きました。この時、性慶は捕えられてから10年が経過していたこともあり、長浜城では軟禁状態で多少の自由がありました。秀吉家族の避難先の話を聞き、そのお世話役として兵庫助が最適であると進言したのです。
 性慶は、こうした機転により兵庫助とともに、秀吉家族らの避難のお世話をしたのです。
 事態が落ち着いて後、性慶は秀吉によって罪が許され、晴れて長浜城の使用人となりました。
 その後、性慶は秀吉から天正18年(1,590年)に、秀吉の江北(近江国の北部地区)直轄領8万石の代官(封建時代の領主に代わる役人)を命じられました。

 

【秀吉から広瀬兵庫助への文書】 
 秀吉からは兵庫助宛に、「甲津原文書」と「広瀬文書」といわれる2通の文書が手渡されており次のとおり、その功績が称えられています。
(1)甲津原文書
天正10年(1,582年)6月19日付 知行書
 「本能寺の変」(天正10年(1,582年)6月2日)直後、秀吉の母(なか)と夫人(ねね)を近江国甲津原(滋賀県米原市)で、治安が安定するまで警護した功績によるものです。秀吉から兵庫助への安堵状と言われています。
[所付](与えられた領地と地位で、この領地を支配する地位と年収)
①近江国東浅井郡高山(長浜市)      420石
②近江国甲津原(米原市)          35石 
③近江国杉野(長浜市木之本町)       45石
                  合計 500石
(2)広瀬文書
天正11年(1,583年)11月12日付 知行書
 賤ヶ岳の戦い[天正11年(1,583年)]の羽柴秀吉と柴田勝家との決戦で、この戦いで功績のあった家臣に対して領地を支配する地位が与えられました。この勝者の秀吉が織田信長の後継者として確固たる地位を築きました。
[所付](与えられた領地と地位で、この領地を支配する地位と年収)
①美濃国広瀬村、坂本村(岐阜県揖斐郡揖斐川町)
②近江国新庄村(滋賀県米原市)
③近江国高山、甲津原、杉野
                              合計1,500石


【参考文献】
広瀬兵庫助一族に関する歴史と伝記は、次の文献を参考にしました。浄休寺寺誌・真敬寺史料・願生寺史料・姉小路と広瀬・長浜城歴史博物館史料・東浅井郡志・岐阜県史・岐阜県郷土偉人伝・揖斐郡史・岐阜県百科事典・奈良県の歴史・日本史年表地図・広辞苑など多数の著書。

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研究者:愛知県春日井市藤山台 

広瀬氏族研究所代表広瀬まさのり

 

 

 

 

 

                    広瀬家伝 ー30ー

 

 

 

                真敬寺(岐阜県垂井町)