風のマーサ、羽州浜街道を行く10 象潟〜金浦〜平沢 | 風のマーサ、街道を歩く(旅と古道と峠道のブログ)

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旅人、ヨガインストラクターの"風のマーサ"
です。
当ブログでは主に
旧街道、古道、峠越えなど
について書いています。
また、それらを
通して日本の美しい原風景を紹介出来たらなぁと
思っております。
是非、ご訪問ください。

こんばんは

風のマーサです😊


今回は

象潟から、さらに北の地へ向かいます。

その象潟は奥の細道道中にて

松尾芭蕉が訪れた最北の地になります。

芭蕉は、さらに北へ行きたかったようですが

体調面も考慮して後ろ髪を引かれる思いで

酒田に戻っているのです。


私はその意思を引き継ぎ

北に向かう気分です(汗)

真夏の歩き旅。

まさに体力勝負。

その象潟からは

国道7号線を進みます。

ほどなくして、右に分岐している

旧道に入り大塩越地区を進みます。

しかし今回は、前回に引き続き

象潟を巡りながら歩いたので

街道からは、はずれて歩きました(下写真)

(ここは東北自然歩道のようだ、左は羽越本線)

(昔は潟湖に浮かぶ島々だった〜象潟)

そして途中から大塩越の旧道に

取り付きました。

すでに集落の出口あたりになります。

(旧道を歩く)

すると祠がありました。

また、その周囲には
二つの石碑が建っています(下写真)
一つは南無妙法蓮華経と書かれる供養塔、
もう一つは青面金剛?と書かれる庚申塔だろうか。

大体、街道沿いの村のはずれに

置かれるもので、ここが羽州浜街道だと

しておきます(汗)


ほどなくすると旧道は国道7号線に

吸収されます。

(国道7号線を歩く)

しばらくは国道を歩き続けますが

やがて左側の旧道に進みます(下写真)

この先、国道7号線のほうは

金浦バイパスになります。

さて旧道を歩きます(下写真)


その旧道は、やがて広い道に吸収されます。

ほどなくして今度は右の分岐路に入り

さらに進んだ先で再び、同じ広い道に

合流します。

赤石地区を進みます(下写真)

その先で赤石川を渡り

左の分岐路に入る。

200mほど歩くと、また元の道に合流。

その先で左に入り金浦へ

向かいます(下写真)

(左に進む)

全体としては北へ向かっているのです。

その旧道を道なりに進んでいくと

前方に標高約28mの太平山が見えます(下写真)

階段で山を登ってみました。

その中腹には

海難者供養碑が建っています(下写真)

説明書きによると

3体の阿弥陀如来の石仏で

通称地蔵様と呼ばれているようです。

さらに山頂まで上がっていくと

太平山神社が鎮座しています(下写真)

また山頂からは男鹿半島が見えます(下写真)

(遠くに映る男鹿半島)

山を降ります。

さて街道のほうはと言うと

山麓に沿って続いています(下写真)

そして金浦に入ります(下写真)

金浦(このうら)は羽州浜街道の

宿場町で北前船の寄港地でした。

古くは木ノ浦と呼ばれていたようです。


金浦を通る浜街道を(道なりに)

進み、角のところで右に折れていきます。

(突き当たりを右に進む)

すると正面に浄蓮寺の山門が見えます(下写真)

また白瀬矗(しらせのぶ)出生之地と書かれる

石碑が建っていました。

日本人で初めて南極探検に挑んだ人物です。

その手前で、街道は直角に左に

折れていきます。

ほどなくして正面には公園があって

ペンギンのモニュメント2体が

控えています(下写真)

先の南極探検隊にちなんだものでしょう。

公園前で右折して、続く三叉路で

左に入ります。

ここからは少しずつ登り坂になります(下写真)

(金浦宿の様子)

(さらに進んで後ろを振り返る、坂道の様子)


このあたりで金浦を出ることになります。

そして変形五叉路では向かいの細い道に

進みます(下写真)

(向こう正面の細い道に入る)

ほどなく進むと県道290号線に合流します。

直接には見えなかったと記憶していますが

すぐ側には観音潟があります。


また近くには、金浦山神社(下写真)

この先、羽州浜街道はどのように

進んだのだろうか。

まず明治以降の旧国道7号線ルートは

はっきりとしています。

☆県道を北に進む→現国道7号線に合流→

その国道を北に進む→黒川への旧道に入る

(右への分岐路)→黒川→現国道7号線を交差して

北へ→芹田


このルートと江戸時代のルートは

同じなのか、違うのか?

何となく、それに近いのでは

ないかと推察します。

と同時に今回は海岸の方に

見に行きたい所があったので

そちらにも向かいます。

(県道より離れ海岸へ向かう)

何とか道を選びながら

海岸までやって来ました。

すると海岸沿いに石垣が積まれています(下写真)

見に行きたかったのは、この石垣です。

それは海岸沿いにずっと続いていて

由利海岸波除石垣と呼ばれています。



江戸時代に建造された石垣で

本荘藩の助成のもと築かれました。

日本海の荒波、強風から

海岸や農地、さらには北国街道(羽州浜街道)

を保全する目的で作られたようです。


さて再び内陸に向かいます。

そして旧国道ルートである黒川への

旧道に入りました。

(黒川集落が見えてきた)

集落内の旧道を道なりに進みます(下写真)

そして角で左折して、続いて右折。

つまりクランク状に進んでいきます。

黒川を出ると現国道7号線を横断して

北へ伸びる道に進みます。

このルートが旧国道7号線です(下写真)

(道は新しくなっているようだ)

そのまま北に向かうと芹田に至ります。

しかし、ここで再び海岸のほうに

寄り道します。

このあたりの海岸にも

波除石垣が残っているのです(下写真)

(由利海岸波除石垣)

さて、旧国道ルートに戻ります。

そして左の分岐路に進んで芹田に
入っていきます(下写真)


集落内を進み、一応の四叉路になっているところで

右に入り白雪川を渡ります。

現在は橋が架かってますが

江戸時代には渡し船で渡ったようです

(写真なし)


白雪橋を渡ると三森(昔は三森村)に

なります。

北前船の寄港地だったようです。

(三森を通る浜街道)

海岸沿いを道なりに進んでいきます。

鈴地区に入ると、波切不動尊碑の標柱が
立っています(下写真)
磨崖仏で不動梵字が刻字されているとのこと。
寛政9年(1797年)

海岸のほうに目を向けると、石に

なにやら文字が刻まれています(下写真)

(写真の左側の、やや大きめの石)

近づいてみると梵字が刻まれていて

裏側には寛政??巳星六月吉日 

願主 忍光とあります(下写真)


(鈴地区の様子)

そうして鈴地区(昔の鈴村)を過ぎて

大沢川を渡ります(下写真)

渡ってすぐ、海岸側には

小高い丘があります。

そこを登っていくと

建武碑が建っていました(下写真)

1338年の年号が刻字されているらしい。

丁刃丸の供養塔という伝承がある。

もうひとつ、方角石がありました(下写真)

石に方角が刻まれています。

さて街道に戻り平沢に入ります。

平沢はかつて、

陣屋町であり北前船の寄港地でした。

まっすぐに進むと、やや広い道が合流してくるので

その道を横断するようにして、

旧道に入ります。

その道は仁賀保神社(斉藤神社)

への参道に続きます(下写真)


また、その道筋には

再び建武碑が建っていました。

さて神社の鳥居の前で左に進みます。

神社の隣には仁賀保家の陣屋跡があって

現在は仁賀保公園になっています(下写真)

仁賀保家は一万石の大名でしたが

幕府の許可を得て7千石、2千石、千石に

分知しました。

この内、二千石家と千石家の陣屋を

この地に置いたようです。

(陣屋の堀の部分だろうか、昔の様子を想像してみた)


続く。



参考)

秋田県道路地図 県別マップル5  昭文社

アプリ ヤマレコ、古地図散歩

など