2016年の春、『夢みるアドレッセンス』主催で行われた『東京女子流」とのツーマンライブで、志田友美と新井ひとみとのオリジナル・コラボ曲がさりげなく披露された。
このコラボ曲こそが、東京女子流の新たな冒険のはじまりを告げる狼煙(のろし)だったのだけれど、──そのお話は次の章にゆずる。
僕は前回、新井ひとみの過去動画を見つづけて、「佐竹さん、この子がアイドルじゃないって言う方が無理があるよ!」という結論に至った。
そこでふたたび、「アイドル」ってなんだっけ? と考えることになる。
おそらく現在は「アイドル」ということばに二つの側面がある。
じつはすでに、佐竹氏の「アーティスト宣言」のなかで言及されている。
「──昨今、アイドルに注目が集まる中で、『アイドル』の呼び方が、その人にとっての『アイドル』という敬称ではなく、『ジャンルとしてのアイドル』という呼び名の方が強くなってきたと思います。…」(※1)
この「ジャンルとしてのアイドル」と「その人にとってのアイドル」の二つだ。
例としては、吉田豪氏が配信番組などで、ときどき話すアイドル観がわかりやすい。
彼はゲストから「豪さんにとってアイドルってどういう定義なんですか?」と尋ねられ、答えるときに二つのパターンがある。
「──ぼくが思うアイドルは、歌って踊る人で、だからグラビアとかだけの人はちょっと違うかなと…」
「──アイドルって、ただご飯を食べているだけでも、ずっと見ていられる。それがアイドルだと思うんですよ」
この二つの返答は、違う場面で、別の相手と、異なった会話の文脈のなかで語られている。そのため、ここで用いられている「アイドル」は、それぞれ違う内容を指している。
「歌って踊る人」は、アイドルという「仕事」を指している。
「アーティスト宣言」のなかで、佐竹氏の言う「ジャンルとしてのアイドル」に対応する。
この「ジャンル」も混乱しやすい。ここでは音楽の内容(ロックとかジャズとか)をしめしているのではなく、音楽興行の形態(ライブとかテレビとか握手会とか)やパフォーマンスのスタイル(バンドとか弾き語りとかダンス&ボーカルとか)をざっくりと想定している。
それとは別に、「ただご飯を食べているだけでも、ずっと見ていられる人」は、仕事や年齢、性別にさえ関係なく、その人からどうしようもなくこぼれ出てしまう「アイドル性」についての話だ。
これも佐竹氏が「宣言」のなかで話していた「その人にとってのアイドル」に対応する。
そのひと個人にとって感じられる誰かにたいするアイドル性が、広く共感されればアイドルスターは生まれる。それは歌って踊る人だけにかぎらない。スポーツマンでも学者でも、アイドルは成立する。
たとえば、吉田豪氏がもふくちゃん(福嶋麻衣子『でんぱ組.inc』プロデューサー)をゲストに迎えた配信番組では、批評家で哲学者の東浩紀氏のアイドル性について話されていた。
吉田豪「──ちょっと表現はあれですけども。いい面倒くささを持っているっていうか」
もふくちゃん「──いや、本当。あんなにやっぱりストレートに正直に生きている人っていないですもん」(※2)
要約すると、あんなに頭がいいのに、「自分にマイナスだ」ということも顧みず、言いたいことをいい、ストレートに正直に生きている、それが魅力的だ。そこが彼のアイドル性ではないか、という話だ。
「頭がいい」のに「バカ正直」というギャップがアイドル性の源だという。スポーツマンやステージに立つ芸能者が常人では真似のできない能力を見せながら、日常で誰でもできるようなことができないと、そこが可愛げに見えたりもする。いわゆるギャップ萌えだ。
ただ、このギャップを「完成」にたいする「未熟」だととらえてしまうと、苦しみも生まれる。
ライムスター宇多丸は、「アイドル」とは何か? についてこう書いている。
「──『魅力』が『実力』を凌駕している存在、ということになるでしょう。加えて、その間のギャップを『無償の(=〈実力〉分の対価を求めない)好意』で埋めてくれる『ファン』の存在と対になって初めて、その構造は可能となる、というのも絶対条件。…」(※3)
ひらたく言うと、実力はまだまだだけど、人を惹きつける魅力があり、実力の足りない(未熟な)ところは、ファンが無償の愛で埋め合わせる(受け入れて応援する、成長を期待する)から成立するんだよ、といったところか。
この、「足りない分の対価」ということばに引っかかって、では「実力の価値」って何だろう? と考えはじめると、なかなか難しいところに入っていくので、ここまでにして。
やはり、アイドルにはどこか「未熟」な印象がつきまとう。ただ、エンターテイメントとして成長を楽しむ文化があるのだとすれば、それは「未熟」であるからこそ成立するのだが。
2017年の終わりに元『アイドリング!!!』のリーダー遠藤舞が、芸能界を引退すると発表した。そのコメントにはこうある。
「──私はいわゆるアイドルと言われることに昔からものすごく抵抗があった。私の中ではアイドルとは芸能人という職種の人間がやるべき『芸』がプロの域に達せず未熟で、その成長過程を楽しんでもらうものと考えているからだ。ゆえに10代や20代前半ではそれはありだとしても、20代も半ばを過ぎてそれは恥ずかしいことだとこの職に就いた時から思っていた。
時は流れてその結果、私はいまだに元アイドルの肩書きなしにはメディアに出られず、アイドル的な売り方をしなければCDも売れない。アイドルを卒業してから何年もたった今でも、最近知り合った人にアイドルという目で見られてしまう。その原因は私の『芸』の才能がアイドルの域を所詮超えられなかったからなんだと思う。結局私はそれほどの者だと思い、自分の才能のなさに嫌気がさして他の適する職業を目指すことになりました」(※4)
とても生真面目で誠実な人なのだな、と思いつつも、彼女のファンに限らず、アイドル界全体を好ましく見ている人々の多くがこの文章を読んで、大きな挫折感を抱くことになったと思う。
「アイドル」ということばにつきまとう「未熟」という重力は強い。遠藤舞は「シンガー」というロケットに乗って、その重力圏を飛びだし、「スター」という衛星軌道を目指したが、けっきょく届かなかった。
ただ、彼女はもともと裏方志向が強かった人のようだし、いまはボイストレーナーとして若いアイドルたちを指導している。けっしてアイドルが嫌いだったわけではない。彼女にとっては時間制限とともに乗り越えるべき壁であったのだ。その経験をもとに、いまは後輩にあたる若い女の子たちを支えている。
彼女が2017年の終わりに、このようなコメントを出して表舞台を去ったことは、とても考えさせる出来事だった。2018年のアイドル界に訪れる、大量の卒業と解散の嵐を予見していたかのようで、象徴的にも感じられる。
少し先走ってしまった。
いま「アイドル」ということばには、二つの側面がある。個人の魅力としての「アイドル性」と、仕事(ジャンル)としての「アイドル」。
もちろん、お互いに相互作用してしまうので、「アイドルという仕事」を離れたはずなのに、「アイドル(未熟)」扱いされていると感じて苦悩する人もいる。
仕事としてのアイドルは、吉田豪氏が言っているように、「歌って踊る人」くらいのゆるいしばりで良いのではないかと思う。
じっさいTIF(東京アイドルフェスティバル)には、2017年から『ベッド・イン』が参戦している。バブル期のスタイルやことばづかいをパロディ化して、過剰にセクシーさを演じている二人組だ。(※5)
彼女たちがTIFに受け入れられたのは、色物としての楽しさとは別に、音楽に対しての真摯な姿勢があったからだ。もともとバンドマンだったふたりなので、自ら演奏するギターにも、ボーカルにも迫力がある。そして、ジュリ扇を持って踊る。(だからもうアイドルでいいじゃん)
2015年ころ、ベッド・インのふたりは、「シケ金」という原宿のローカルFMにゲスト出演していた。そのころはまだ、バブル女性のパロディーと、根が真面目な素の彼女たちが混在していて、MCのジェーン・スーから、「やるときは完全にやりきれっ!」と叱咤激励されていた。「コンセプトは間違いないのだから、やりきれば絶対に売れる」それ以降、彼女たちを見かけるときには、ステージ上であれ、番組出演であれ、バブル女性のパロディーを演じきっている。うざいくらいに(褒めてます)。
ジャンル(パフォーマンス)としての「アイドル」は、限りなく広がっている。
かつて80年代に隆盛を誇った音楽業界のアイドル文化は、カジュアル化し、セルフ・パロディ化のすえに、陳腐化する。そして、いくつかの不幸も重なり、輝きを失う。(※6)
「アイドル」はカッコ悪いことばとなり、音楽業界は「アーティスト」ということばを持ち出した。
しかし、この「アーティスト」ということばも、80年代以前を知るものには、どこか違和感がある。
山下達郎の発言がわかりやすい。「嫌いなことばは?」と問われ、彼はこう答える。
「──アーティスト。自分が言われるのも嫌だし、口にするのも嫌い。いま日本で使われてたり、メディアが言ってるアーティストは、本来の意味じゃないですからね」(※7)
やがて、カッコ悪くなったはずの「アイドル」ということばがふたたび、浮上する。
音楽業界ではゴミ箱に捨てられてしまった「アイドル」という〈ことば〉を、もういちど取り出して磨き直したのが『モーニング娘。』であり、音楽業界の外からチャレンジし、屈することなく「アイドル」というあり方を圧倒的な購買力へと拡大したのが『AKB48』だった。そのあいだを橋渡しするように『Perfume』の成功物語もある。
2010年以降の音楽業界がAKB48とPerfumeを参照しながら展開したように、2015年以降は『東京女子流』の事例が参照される。
『フィロソフィーのダンス』をプロデュースする加茂啓太郎は「──アイドルということで受け皿が広がる。ダンス&ボーカルというと出ていくところがなくなってしまう…」と話していた。(※8)
それは『東京女子流』の挑戦があったからこそ、あぶりだされた現実で、歴史的に重要な役割をはたすことになった。
ほんらい、肩書はどうだっていい。プロモーションで効果的なら、「アイドル」でも「アーティスト」でも、なんだって使えばいいのだ。
エンターテイメントで大切なのは、ひとを感動させることである。それだけでいい。結局それだけが残る。
(僕は荻野可鈴の握手の力強さに驚いたことがある。そんな些細なことだって感動だ。僕は一生忘れないだろう)
2016年の春、新井ひとみの歌を聴き、映像を見つづけて、僕はこう思った。
「佐竹さん、この子がアイドルじゃないって言う方が無理があるよ!」
そのころ、東京女子流のプロジェクトディレクター佐竹義康は、つぎのプランに着手していた。
──「アイドルとアーティストのはざまで【7】再建のサマー」につづく

(※1)東京女子流アーティスト宣言(素人テープ起こし) | カピバラ日和
(※2)吉田豪ともふくちゃん 東浩紀のアイドル性を語る
(※3)「ライムスター宇多丸『アイドル幻想』変容の時代。」マガジンハウス「BRUTUS」2010年6月1日号p84
(※4)吉田豪と遠藤舞 芸能界引退ツイートを振り返る
(※5)ベッド・イン、TIFで初単独おギグ お台場にバブルの香りを撒き散らす - KAI-YOU.net)
ちなみに──
2019年末にはじまった、ひーさんの新たなるチャレンジは、80年代末の森高千里による「非実力派宣言」と、毒抜きした『ベッド・イン』みたいなものかなあ、と思ってみたり…
・80年代の終わり【2】「オタク」「バブル」「森高千里」
(※6)本ブログ:参照
・「おニャン子クラブ」 その可能性と限界
・1986年の岡田有希子
・80年代の終わり【1】 中森明菜と小泉今日子
(※7)本ブログ:アーティストは自作自演? | マニファクチャード・ガールズ・クロニクル:参照
(※8)@JAM THE WORLD アフタートーク 2017.5.22