昔、国鉄飯田線は、伊那電気鉄道、三信鉄道、鳳来寺鉄道、豊川鉄道の4社に別れていました。

このうち、伊那電鉄は路面電車から出発したため、電圧が低く、他とは直通できませんでした。

 そのため、電車の後ろに、客車を連結して直通させました。

 それが、「サロハユニフ101」という名がい名前の電車で、意味合いとしては「サ」が運転台もモーターもない車両を意味し、「ロ」がグリーン車、「ハ」が普通車、「ユ」が郵便車、「ニ」がニ」が荷物車、「フ」が車掌室付を意味し、わずか16メートルの車体に、一等二等客、郵便、荷物、車掌を乗せ、さらに便所もついていました。

 これが、4社の電車に引かれて信州辰野から豊橋を目指しました。


のち、国鉄飯田線になると、この車両は、首都圏の通勤型だったクハ16の半分を荷物室に改造したクハニ19に置き換えられましたが、居住性、大きさなどが不十分だったため、常磐線の半室荷物車クハニ67を改造して室内をクロスシートとし、荷物室の半分を仕切って郵便室とし、便所を取り付けたクハユニ56に置き換わりました。この車両はロングシートの40系として造られたものの、なぜか扉間の窓数が、3扉クロスシート車と同じ6枚で、はじめからクロスシートに改造することを予定しているかのような車でした。

 新性能化のときはクモユニ147に置き換えられています。余談ですが、クハニ19は、廃車あと荷物室を座席に復元し、伊豆箱根鉄道のクハ80型となり、一部は運転台が撤去され、サハ80型になりました。

このように、飯田線直通運転の郵便荷物電車のさきがけが、このサロハユニフ101だったのですが、後任に道を譲り、資材を積み込んだ救援車として、飯田線にその後もずっと残って、主的存在でした。

 形式はサエ9320と改められました。

電車ですが、運転台もモーターもなく、他の電車の後ろについて牽かれるだけの車両なので、実質は客車でした。



この機関車は、国鉄ディーゼル機関車黎明期の昭和39年、三井造船が、汽車会社と東洋電機の協力で試作した大型電気式ディーゼル機関車で、客車暖房ボイラーを備えた旅客用で、純白のボディに赤と銀の帯が入った堂々としたもので、車体はEH10電気機関車に似ていました。

スウェーデン製のエンジンで発電してモーターで走行しました。当初DF41と附番され、DF92に改称されました。

 同時期、日立はDF90(電気式)とDF93(液体式)、いずれもEF58に似た車体で独逸製エンジン搭載を造り、川崎重工はDF40→DF91(電気式、瑞西ズルツァー社製エンジン搭載)を造り、比較検討されました。

 その結果、川崎製のDF91が、台車をCーCの3軸2台車゜これら試作大型機共通)からbーBーBと2軸3台車に変更、貫通式にするなどの改良を経て、DF50として正式採用され、DF91も貫通式にかいぞうされて塗装も改められて四国で共通運用されました。

 また、DF50の2次型500番台には、DF90に搭載された独逸マン社のエンジンが搭載されました。

結果、スウェーデン製エンジン搭載の本機と、液体式の93は、不採用で、90と91が、改良の上量産されたことになります。

なお、これとは別に、たった1か月間だけ存在した、幻の初代DF90が存在しました。ほんのわずかな期間しか存在せず、我が国には現存しませんが、実はこの機関車は台湾国鉄の主力機で、完成後国鉄でテストし、終了後台湾に送られて量産されたもので、外観は凸型ながらボンネットの高さが運転席と同じ高さにある、アメリカンスタイルの特異な機関車でした。メーカーは日立で、電気式でした。現在も台湾で1両が保存されています。