さらに進むと布袋尊がいらっしゃいました。
さらに奥へ。
右手に明王堂があります。
平成十年に新築したそうです。
左手に本堂です。
本堂
寛永五年(1628)頃建立
養玉院の本堂であったが、大正12年下谷坂本
から移築したものである。
もと瓦葺であったが、現在は銅板葺で、昭和62
年度再度葺替えられた。
此処でお詣りしました。
そして・・・奥に見事な如来堂とその手前、仁王像
金剛力士です!!
如来堂
宝暦十年(1760)建立 当初寛永年間(1624−44)、
如来寺の本堂として建立されたが現在のお堂は
宝暦十年の再建。
明治末の移転に際して現場に縮小された。
『江戸名所図絵』巻一には、桁行7間梁行5間の
重曹のお堂として描かれている。
仁王像 金剛力士
金剛力士(こんごうりきし)は、仏教の護法善神
(守護神)である天部の一つ。
サンスクリットではVajradhara(ヴァジュラダラ)と
言い、「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる
武器)を持つもの」を意味する。
開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うん
ぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門など
に安置することが多い。
一般には仁王(におう、二王)の名で親しまれて
いる。
〔参考:「天台宗 帰命山 如来寺 HP」より〕
さあ!大仏さんを拝みましょう!と階段を上ると
・・・ガーン!扉が閉じています。
16時を過ぎていたので閉門となっていたようです。
残念、また再度来ましょう!
説明板があります、これで予習しておきましょう。
木造釈迦如来及び両脇侍像
中尊の釈迦如来は、像の高さ133cmの坐像で
ある。
脇侍は、向かって右が老年の迦葉尊者で、像の
高さ168.5cm、左が壮年の阿難尊者で、像の高さ
171cmのいずれも立像である。
三尊のそれそれの背に朱の漆書きがあり、三尊とも
延宝5年(1677)に、沙門兆渓が明国の范宗仁に
長崎で彫らせたものであることがわかる。
元は、江戸洲崎村(現墨田区東向島)の黄檗宗
弘福寺(後天台宗に改宗)にあったが、当院に移し
たといわれている。
木造阿弥陀如来立像
対馬藩主宗家に伝わった像といわれ、新阿弥陀
堂の本尊として安置されている。
像の高さ91.5cmの寄木造りで、平安時代の末期
から鎌倉時代の初期(1150-1200頃)に制作され
た古い像である。
木造天海僧正坐像
老人の姿で椅子に坐った像の高さ90cmの寄木
造りの像である。
像の内部の墨書によると、寛永21年(1644)に
大仏師慶雄が制作したことがわかる。
絹本着色阿弥陀三尊来迎図
阿弥陀如来が、脇侍の観音・地蔵菩薩とともに、
臨終の信者を極楽浄土へ迎える図で、軸に仕立
てられており、室町時代(1333-1573)の作と推定
される。
阿弥陀三尊の脇侍は、一般的には観音及び勢至
菩薩であるが、本図は、地蔵菩薩が描かれている
珍しい図である
〔品川区教育委員会〕
木造五智如来坐像(五体)
五智如来堂(瑞應殿)内に、向かって右から薬師
如来、宝生(勝)如来、大日如来、阿弥陀如来、
釈迦如来の五体が妥置されている。
いずれも像高3mにも及び、「大井の大仏」と呼
ばれている。
五像は、木食但唱が弟子と共に信濃国で造立し、
寛永13年(1636)年江戸芝高輪に如来寺を建て
て妥置した。
如来寺は、明治三十年代に、大井村(現在地)に
移り、大正十五年養玉院と合併したが、五智如来
は、如来寺伝来のものである。
薬師如来以外は、火災で諸堂と伴に焼失し、宝暦
年間(1751-1764)に再建されたが、壮観を姿は
江戸庶民の信仰と結びつき、由緒ある如来像は
貴重である。
〔品川区教育委員会〕
「大井の大仏」観たかったです!