「川越探検」13:白狐伝説の雪塚稲荷神社と長喜院! | 今日は何をレポートしようかな?

今日は何をレポートしようかな?

身の周りの物の掘り下げ、都会を訪ねて、歴史を訪ねて、小説・
映画・TVドラマの舞台を訪ねて、レトロを探して
何でもレポートします。

 

 

 「ミオ・カザロ蔵のまち店」で昼食を終えて元の

メインストリートに戻りました。

まだまだ賑わっていますねー!

 

 

 

 

 

 ちょっと西側の裏路地に入ってみました。

鳥居がありますね。

扁額には「雪塚神社」とあります。

此処は雪塚稲荷神社と呼ぶようです。

雪塚稲荷神社 白狐伝説

 江戸時代、ここ町の通りに白い狐が迷い込み

ました。

これを見た若い衆が、殺し食べてしまったそうです。

その若い衆はたちまち熱病にかかり、毎夜大きな

人魂が街に現れる様になりました。

町の人は白狐の祟りだと恐れ、長喜院の境内に

社を建て、白狐の皮と骨を埋めて塚を築きました。

それが雪の降る日だったことにちなみ「雪塚稲荷

神社」と名付けたそうです。

〔参考:サイト「カワゴエ―ル」より〕

石碑に縁起が書かれています。

雪塚稲荷略縁起

 当社は城下町川越の十ヶ町の一つ、南町の

氏神として崇拝されてきた。

南町は、江戸から明治にかけて六十軒あまりの

町であったが、江戸店を構える大商人を多く生

み出し、明治十一年(一八七八)には県下初の

国立銀行を開業させるなど、十ヶ町の中でも中

心的な商業地であった。

神社の創始は、口碑に、「江戸の昔、ある大雪

の夜、南町の通りに一匹の白狐が迷いあらわ

れた。

これを見た若い衆数人が白狐を追い回してつい

に打ち殺し、挙句の果てにその肉を食したところ

たちまち熱病にかかり、さらに毎夜大きな火の

玉が街に現れるようになった。

町内の者はこれを白狐の祟りだとして恐れおの

のき、近くの長喜院の境内に社をたて、白狐の

皮と骨を埋めて塚を築き、雪の日のできごとで

あったことにちなんで、雪塚稲荷神社と名付け

て奉斎した」という。

明治二十六年の川越大火によって本殿、拝殿

焼失、同三十年四月二十八日に再営した。

その際土中のご神体を改めたところ、白狐の

毛が逆立つのを認め驚いて再び埋納したという。

また、昭和五十五年社殿の修理中、床下中央

部から石板が発見され、「雪塚稲荷神社遺躰

文政六年二月十二日御霊昇天、同年三月十二

日御霊祭日と定め同年同日雪塚稲荷神社と称

す」との銘文があった。

文政六年(一八一三)以来、とくに商売繁盛に

霊験あらたかさをもって知られ、町内のみなら

ず、遠隔地の講中や近隣末社の人々の不断の

信仰に支えられてきた神社である。

(境内石碑より)

〔参考:サイト「猫の足あと」より〕

 

 

 

 

 隣には立派な山門を持つ長喜院がありました。

曹洞宗 冷月山 長喜院

 曹洞宗寺院の長喜院は、冷月山と号します。

長喜院は、大道寺権内長喜(冷月長喜居士永禄

5年1562年歿)の屋敷跡地に、大翁(文禄元年

1592年寂)が冷月山長喜院と号して開山したと

いいます。

〔参考:サイト「猫の足あと」より〕

近くに蔵があって、そこは陶芸教室でした。

この辺りは人がいません。

 

 

 

 

 

 

 

 またまたメインストリートの仲町辺りに戻りま

した。

まだまだ観光客で賑わっていました。

外国人よりも日本人が多いようです。