最終回「根津探検」4:根津神社からノスタルジックな根津の街並み! | 今日は何をレポートしようかな?

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 根津神社の表門に戻ります。

途中森鴎外碑銘水と書かれた説明板と水飲み

がありました。

森鴎外碑銘水

日露戦争戦勝記念に陸軍軍医監だった森林太郎

(森鴎外)が戦利砲弾を奉納した時の台座を転用し

たもの。

この直径のロシアの大砲の弾が乗っていたが戦時

中の金属供出した。

正面には「我武維揚(ワガブコレヲアグ)」と刻まれ

ている。

〔参考「根津神社 HP」より〕

つつじ苑は微かに紅色が見えるもののやっぱり咲

いてはいませんでした。

由緒書きを読んで根津神社を後にしました。

 

 

 

 

 

 ノスタルジックな「文豪の街」根津を歩きます。

旧町名説明板があります。

旧 根津須賀町

  (昭和40年までの町名)

もと、甲府宰相徳川綱重 (三代将軍家光の子で

五代将軍綱吉の兄)の屋敷があった。

綱重の子の綱豊 (六代将軍家宣 となる)がここ

で生まれ、団子坂上にあった根津神社が産土神

(生まれた土地の神)であった。

綱豊は網吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に移った。

 綱吉は、宝永3年(1706) 根津神社を甲府屋敷

の跡に移し、華麗な社殿を造営した。

また町屋が開かれ、根津社地門前と称した。

明治2年、町名を根津須賀町とした。

 根津の名の由来には、ねずみのいわれ、台地の

根にあって舟の泊まるところなどの各説がある。

須賀は、根津神社の祭神素戔嗚尊(すさのおの

みこと)が、出雲の須賀に宮居を定め、わが心須賀

須賀須(すがすがす)といわれたによると。

〔文京区〕

なんか文章が途中で終わっているような・・・?

金太郎飴のお店は健在でした。

 

 

 

 

 

 不忍通りに出ました。

此処にも旧町名説明板があります。

旧 根津八重垣町

 (昭和40年までの町名)

宝永 3年(1706) 根津神社が、元根津(団子坂上

の北側)から現在地(六代将軍家宣の生まれた

甲府中納言家徳川綱重の山手屋敷であった)に

移って、その門前に町屋が開かれ、根津門前町

といわれた。

明治2年、根津八重垣町と町名を改めた。

それは、根津神社の祭神素盞鳴尊の歌によっ

たといわれる。

八雲起つ 出雲八重垣つまごみに

八重垣造る その八重垣を

根津の名称は、根津神社の天井や絵馬などに、

ネズミが多くかかれていることからではなかろ

うか。

大黒天 (大国主命)が祭られているが、ネズミは

その使いといわれる。

(「御府内備考』)

〔文京区〕

東京メトロ・根津駅から一人打上げに向かい

ます。

一旦「根津探検」レポートを終わります。