「目白文化村遊歩」5:會津八一旧居跡と霞坂! | 今日は何をレポートしようかな?

今日は何をレポートしようかな?

身の周りの物の掘り下げ、都会を訪ねて、歴史を訪ねて、小説・
映画・TVドラマの舞台を訪ねて、レトロを探して
何でもレポートします。

 

 

 

 

 市郎兵衛坂のトップから住宅街の坂道を下り

ました。

もう藤が咲いているお宅がありました。

この辺り高低差が凄いです!

 

 

 

 

 

 住宅街の角に説明板が貼られています。

読んでみましょう。

落合秋艸堂跡(會津八一旧居跡)

 歌人・書人・美術史家會津八一(1881~1956)

が大正11年(1922)8月から昭和10年(1935)

7月に目白文化村へ転居するまでの13年間

を過ごした場所である。

この地は、市島謙吉(1860~1944、ジャーナリ

スト・早稲田大学初代図書館長)の別荘で

あり、『大日本地名辞書』で知られる地理学者・

吉田東伍(1864~1918)が最晩年を過ごした

場所でもある。

 新潟市に生まれ た八一は、東京専門学校

(現早稲田大学)で学び、後に早稲田中学校

の英語教員を務める傍ら、奈良美術の研究

に勤しんだ。

また、書や和歌の分野でも活躍した。八一の

落合秋艸堂時代は、奈良美術研究会の設立、

第一歌集『南京新唱』の上梓、早稲田大学教

授への就任、雑誌『東洋美術』発刊、文学博

士の学位取得等、多彩な生活を送った時期

である。

また、落合秋艸堂には、曾宮一念(1893~

1994)・鶴田吾郎(1890~1969)・織田一麿

(1882~1956)・吉野秀雄(1902~1967)・

窪田章一郎(1908~2001)ら弟子や文化人

が多数出入りし、交流を重ねた。昭和10年

(1935)に近くの目白文化村の洋館へ転居

するが、その後新潟に疎開、戦後は故郷で

過ごした。

なお、当時の建物は昭和25年(1950)に

西武鉄道に売却されたが、近隣に移築して

保存したため、昭和62年(1987)まで現存

していた。

 落合秋艸堂には大正から昭和にかけて、

八一のもと洋画家・歌人・研究者が多数出

入りし交流の場となった。

市島謙吉が江戸時代から景勝地として知ら

れたこの地に別荘を建て、會津八一や吉田

東伍を住まわせたことは、文化人の庇護という、

謙吉の生家である新潟の豪商の文化的伝統

が生かされたともいえる。

會津八一が後半生の活動の基礎を成した場

所として、また彼を取り巻く芸術家や文化人が

交流を重ねた場所として、地域史・教育史・

文化史上重要な史跡である。

平成26年3月

〔新宿区教育委員会〕

早稲田大学キャンパスを探検した際「會津八一」

さんのお名前を知りました。

また坂道を上ります。

 


 

 

 

 坂道の名前は「霞坂」

標識があります。

これも読んでみます。

霞坂(かすみさか)

『豊多摩郡誌』に「霞坂」大字下落合より小学校前

へ開穿したる新坂なり」とある。

昔、この坂下は一面の水田だったので、春がすみ

の立つ、のどかな田園風景が美しかったという。

〔新宿区教育委員会〕

公園に出ました。