「内藤新宿探検」3:見つけた新選組・沖田総司逝去の地! | 今日は何をレポートしようかな?

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 今回の目的地は新宿御苑でも多武峯内藤神社

でもありません。

まだ先です。

外苑西通りに戻ると、大京町北交差点

「大京町」という町名、初めて知りました。

この辺りさり気なく井戸のポンプがあったりして、

まだ昭和が残っています。

さらに進むと大京町交番前交差点

調べてみました。

大京町(だいきょうちょう)の由来と今

古くは江戸以前、四谷から内藤新宿にかけての

一帯はすすき原で、潮の満ち干きの影響もあっ

たことから、潮踏の里(しおふみのさと)、あるいは

潮干の里(しおほしのさと)、よつやの原(よつやの

はら)などと呼ばれる人家のない荒野でした。

江戸時代に入ると、江戸城の外堀整備にあたり、

影響を受けた社寺群は四谷地域に集団移転。

また警護のための城門(見附)が設けられ、さら

に甲州道中が整備されると、街道沿いにあった

四谷の様相は一変することに。

寺院の周辺には門前町屋が軒を並べ、商人職人

の活動が栄え、旗本屋敷が集中するなど、郊外

地区から一気に都市部へと変貌をとげていきま

した。

明治5年(1872年)、武家屋敷や与力・旗本の

集っていた「右馬殿横町」と「右京殿町」をあわせ

た「四谷右京町」、大番組屋敷が集っていた

表大番町・裏大番町をあわせた「四谷大番町」

が制定されました。

大番とは江戸幕府の職名で、旗本により編制さ

れ、戦時は本陣を固める精兵となり、平時は交

代で江戸城および大坂城・京都二条城の警固

をする役割りを持っている武士のこと。

江戸時代は同じ職務で集団をつくって住んでい

たため、役職名や特徴がそのまま地名として

使われることが多かったのです。

明治11年(1878年)千駄ヶ谷大番町を四谷区

に編入し、同24年(1891年)四谷大番町に吸収。

昭和18年(1943年)四谷大番町と四谷右京町

を併せ、一文字づつとって「大京町」が誕生しま

した。

〔参考:サイト「東京散歩」より〕

そういう経緯だったんですね!

 

 

 

 

 

 

 さらに南下すると、川が流れていないような橋

があり、そこを通り過ぎようとしました・・・おおっ!

此処に目立たない説明板がありました!

「伝 沖田総司逝去の地」と書いてあります。

これが今回の目的地です。

読んでみます。

伝 沖田総司逝去の地

この場所には、高遠藩主内藤家屋敷(現新宿

御苑)に沿って流れる旧玉川上水の余水吐

(渋谷川と呼ばれる)に池尻橋がかかっていま

した。

 多くの歴史小説や映画などで、新撰組隊士

沖田総司(1844~1868)が晩年に療養し、亡く

なったとされる植木屋平五郎(柴田平五郎)の

屋敷はこのあたりにありました。

平成二十六年三月

〔新宿区〕

此処に渋谷川が流れていたんですね!?

しかしこの案内板 地味ですねー!

沖田総司逝去の地|東京都新宿内藤町

沖田総司が最期を迎えた場所は諸説ある。

浅草の今戸神社とこの新宿にあったとされる

植木屋平五郎宅である。

新宿区・新宿御苑に隣接するアパートの隣に

「伝・沖田総司逝去の地」はある。

慶応四年鳥羽伏見で敗戦し江戸へ戻ってき

た新選組一行。

近藤は病気の沖田を幕府の医師で新選組と

親交のあった松本良順に預ける。

この松本が仮宅としていたのが浅草今戸神

社の敷地であったことから今戸神社には

「沖田総司逝去の地」という看板が掲げてあ

る。

また永倉新八の「同志連名記」に「白川脱藩

沖田総司 江戸浅草今戸八幡松本良順先生

宿にて病死」とある。

 しかし子母沢寛が聞き取りした近藤勇五郎

の話では「郊外千駄ヶ谷の或る植木屋のはな

れ」とあり、明治21年に吉野泰三が記した

「近藤勇五郎に質し之を記す」のなかに「沖田

総司は近藤勇の門人。

明治元年辰年三十日東京千駄ヶ谷に於て病死」

と記されていたことで千駄ヶ谷説は濃厚になった。

慶応四年二月ごろ千駄ヶ谷池尻端の植木屋

平五郎の離れを借り受け沖田を移したとされて

いる。

沖田がなくなる前月四月二十五日、近藤勇が

板橋で処刑される。

しかし病身にさわるという理由で近藤の死は

沖田には伝えられなかった。

沖田がなくなった五月三十日、新選組の面々は

会津にて白河口攻防戦の真っただ中だった。

流山で本隊と離れた土方歳三も宇都宮から会津

へ向かっていた最中だと思われる。

このため沖田総司の死は新選組の組員には知

らせるすべはなかったと思われる。

〔参考:ブログ「新選組紀行」より抜粋」〕

浅草今戸神社をレポートしたことがありますが、

表示には気づきませんでした、迂闊でした。

 

 

 

 

 

 此処を離れると渋谷川に架かっていた池尻橋

の欄干。

そして交番がありました。