「盛岡探検」7:報恩寺の五百羅漢はすごい! | 今日は何をレポートしようかな?

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 次は五百羅漢の報恩寺に向かいます。

四つ角を右折してしばらく進むと鬱蒼とした

森の奥にありました!

堂々たる三門がありました。

曹洞宗 瑞鳩峰山 報恩寺

曹洞宗寺院の報恩寺は、瑞鳩峰山と号します。

報恩寺は、南部家十三代英主守行公が応永元年

(1394)三戸八幡側に創建、盛岡城下の整備に伴

い、慶長6年(1601)当地へ移転したといいます。

その後衰微したものの久山舜桂大和尚が再興、

永禄12年(1569)南部家より寺領二百石を受領、

江戸期には南部領の曹洞宗寺院208ヶ寺の総録

司だったといいます。

〔参考:サイト「猫の足あと」より〕

 

 

 

 

 

 三門手前に二つ説明板があります。

報恩寺縁起

報恩寺は応永元年(一三九四)南部家十三代の

英主守行公によって三戸に創建され、慶長六年

(一六〇一)二十七代利直公のとき現在地に移転

された。

藩政時代は寺領二百石を有する南部領内二百

八ヶ寺の総領であった。

現在も寺域七千坪を有する曹洞宗一方の勝刹で

ある。

本尊釈迦文殊普賢の三尊像は元大和中善寺本尊

像で聖徳太子作と伝え、羅漢堂の中尊毘盧舎那仏

は元大和橘寺金堂本尊像で弘法大師作と伝えて

いる。

市文化財指定の羅漢堂及び五百羅漢像は享保

二十年(一七三五)の落成開光で、像は中国天台山

像を模して京都で作製されている。

本堂背後の坐禅堂には文殊菩薩を中心に五十人

分の禅床がめぐらされている。

「瑞鳩峰山」の扁額を掲げる三門楼上には十一面

観音がまつられている。

(境内掲示より)

報恩寺五百羅漢

鳩峰山報恩寺は、旧盛岡藩における曹洞宗の名

高い寺である。

五百羅漢は当寺第17世曇樹一華が願主となり

享保16年(1731)から造立をはじめ同20年(1735)

8月20日、落慶供養をいとなんだものである。

尊像制作者は、京都の仏師法而重賢、駒野定英

珍盈、駒野丹下定孝ら9人。

このように短期間に完成し、しかも木彫で、

五百羅漢の数値にかなうような軀数が現存し、

造立年代や願主、制作者まで明確に知りうるこ

とは全国的にみてもまれなことである。

昭和41年10月18日、盛岡市文化財指定。

現存の羅漢堂は、嘉永4年(1851)の再建。

昭和45年2月25日、盛岡市文化財指定。

(境内掲示より)

〔参考:サイト「猫の足あと」より〕

三門をくぐり境内へ進みました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 中に山門がありました。

山門をくぐると鐘楼羅漢堂です。

羅漢堂に進みます。

羅漢堂

羅漢堂は、1735年(享保20年)8月の棟札があり、

羅漢像の完成によって造営されたと考えられます。

本堂はその後、「上棟相済云々」の銘板によると、

1850年(嘉永3年)8月から1851年(嘉永4年)7月

にかけて、地元の大工棟梁戸沢甚助以下20余名

により改建されています。

御影石の土台上に総壁の方形造りの土蔵仕立てで、

屋根は瓦葺とし、梁・柱・桁木等巨材を惜しみなく

使用しています。

礼壇上の天丼に狩野林泉筆といわれる見事な竜図

が描かれています。

今は屋根が瓦、土間は敷き瓦ですが、もとは檜皮

葺で三和たたきとし、土面を堂内巡りできるように

してあったといわれています。

〔参考:「盛岡市 HP」より抜粋〕

羅漢堂の格子戸から五百羅漢を拝みました。

すごい迫力でした。

最後は本堂でお詣りして報恩寺を後にしました。