開運橋を渡り、自転車に跨って先ず最初の
スポット「啄木新婚の家」へ。
当初は「外観だけ!」と思っていたのですが、
中から学芸員のおじさんから「どうぞご覧になっ
てください」と言われて中へ。
無料でした。
表札には「石川啄木」と書かれています。
啄木新婚の家
石川啄木が堀合節子との新婚生活を始めた家。
随筆「我が四畳半」に新婚当時の様子が書か
れています。
〒020-0021 盛岡市中央通三丁目17-18
〔参考:「盛岡市 HP」より〕
中は意外に広いです。
「啄木・節子」ご夫婦の写真が出迎えてくれま
した。
説明板があります。
「漂泊の歌人・石川啄木」が新婚当初3週間
暮らした家
盛岡市出身の詩人、石川啄木が1905年
(明治38年)から妻・堀合節子と新婚当初3
週間暮らした家で、現存する盛岡唯一の武家
屋敷。
藩政末期に建築されたと推定されており、盛岡
市指定有形文化財に指定されています。
屋根は防火のため鉄板で覆われていますが、
もともとは茅葺き屋根でした。
「啄木新婚の家」に入ると直ぐ、石川啄木と妻・
節子の大きな写真パネルが出迎えてくれます。
中央の部屋には、啄木の年表や、妻・節子と
のエピソード、連載していた新聞「岩手日報」に
ついて紹介されており、啄木のひととなりや暮
らしぶりについて詳しく知ることができます。
年表には啄木の引っ越し歴も記載されていま
す。
渋民、盛岡、東京、北海道と放浪の人生をた
どり、「漂泊の歌人」と呼ばれる理由が分かり
ます。
なお、随筆「閑天地」の一編「我が四畳半」には
新婚当時の様子が書かれています。
〔参考:「東北の観光・情報サイト旅東北」
より〕
実はこの家には3週間しか住まず、盛岡市
中央通三丁目から同市内・中津川のほとり
加賀野一丁目に転居したそうです。
結婚式の当日、この家で関係者が集まる中、
啄木は遅れて5日後にやって来た、と書いて
ありました。
やっぱり私生活はダメダメ人間だったのでし
ょうか?(笑)
片隅の4畳半(?)の部屋がご夫婦のお部屋
だったようです。
“吾れはあく迄愛の永遠性なると云ふ事を
信じ度候”
“堀合節子”との出会い、そして結婚へ
啄木が盛岡中学(現在の盛岡第一高等学校)
二年生の時、後に妻となる堀合節子と出会い
ます。
やがて二人は恋心を深めて、1904年(明治37
年)2月に結納という形で結実。
第一詩集『あこがれ』の出版のため上京中の
啄木に代わり、1905年(明治38年)5月12日
に父親が婚姻届を提出、5月30日に盛岡での
結婚式となります。
5月20日に東京から岩手・盛岡へと向けて出
発した啄木ですが、途中の宮城・仙台で下車し
て友人たちと過ごすこと一週間以上。
5月29日に仙台をやっと出発します。
さあ結婚式は無事に開かれるのでしょうか。
“花婿のいない結婚式”と妻・節子の愛
しかーし、石川啄木は盛岡駅を素通りして、
幼少期を過ごした渋民(しぶたみ)へ。
予定の30日の夜、珍妙な“花婿のいない結婚
式”が行われます。
それでもまだ現れない啄木に対して、6月2日
に妻・節子が“信じたいと思います”という気持
ちを仲人に伝えるために書き綴ったのが冒頭
の言葉。
結局、啄木がこちらの家に到着したのは6月
4日。
そんなドタバタ劇を終えて新婚生活がこの場
所から始まります。
石川啄木の妻・節子は盛岡女学校(現在の
盛岡白百合学園高等学校)を卒業し、バイオ
リンや琴の演奏も。
また短歌にも才能を示し、啄木の創刊した文
芸誌「小天地」には「こほろぎ」とタイトルを付
けた13首を発表し、好評を得るほどでした。
啄木の両親と妹が使用した部屋には、妻・節子
の愛用した見応えのある大きな琴も展示され
ています。
〔参考:サイト「トラベル.Jp」より抜粋〕
芥川賞作家でお笑い・ピースの又吉さんや、
吉田類さんも此処を訪れたようです。
では次へ。