蘆花記念館を出て、庭園を巡りましょう!
蘆花記念館の向こうにに茅葺き屋根の家が見えます。
そして説明板が立っています。読んでみます。
恒春園の名の起こり
住居(すまい)の雅名が欲しくなったので、私の「新春」が出た大正
七年に恒春園と命名しました。
台湾の南端に恒春と云ふ地名があります。
其恒春に私共の農園があるといふ評判が立って其処に人を使ふて
呉れぬかとある人から頼まれたことがあります。
思もかけない事でしたが、縁喜が好いので、一つは「永久に若い」
意味をこめて、台湾ならぬ粕谷の私共の住居を恒春園と名づけたの
であります。
「みみずのたはことより」(原文のまま)
〔設枚板より〕
普通の瓦屋根の家があります。
ここにも説明板がありました。これも読んでみましょう。
愛子夫人居宅
この建物は蘆花夫人の愛子さんが、昭和十年九月十八日蘆花没後十年を期して、東京市に土地・建物・遺品等の一切を寄付し、翌十三
年二月二十畑コ意花恒春園が発足するに際して、夫人の要望に基づき、夫人の当面の住まいとして当時東京市が新築したものです。
しかし、愛子夫人が実際に居住したのは昭和十四年十一月まで
と短い期間でした。と言うのも、現在、「花の丘」として蘆花恒春園
の一部に編入されている区域に当時野外のゴミ集積所がつくられ、
風向きによるその悪臭にほとほと悩まされたことが大きな理由のよう
です。このため夫人は三鷹台に土地を借り分を新築し、日常はそちら
に住みました。
愛子夫人は後に熱海に転居し、そこで昭和十二年二月二十日永眠
しました。その遺骸は本園のくぬぎ林内の蘆花の墓地に一緒に埋葬
されました。
なお、この建物は後に、公園施設の集会場として公開され
以後多くの人に利用されてきております。
〔説明板より〕
裏にも廻ってみました。
茅葺き屋根の家が秋水書院ですね。
秋水書院と母屋、さらに梅花書屋が渡り廊下でつながっています。
此処にも説明板があります。
秋水書院
明治維新前十年の建物(今から約百四十年前)
この建物は、蘆花が烏山に在った古屋を買取り移築し、一九一一年
(明治四十四年)一月から春にかけて、建て直したもので通称「奥書院」
の名がある。
建前は一月二十四日であったが、当時世間の耳目を集めた大逆事件
の犯人とされた幸徳秋水以下十二名の死刑の執行の日であった。
蘆花は大逆事件については冤罪であると、大きな関心を寄せていたが一月中旬に十二名が死刑判決を受けたことを知ると兄蘇峰及び
桂総理宛に再考の書簡を出した。
また一月二十二日には、第一高等学校(現東京大学)生徒の弁論部
委員が演説を依頼にきたので、とっさの思いつきで「謀反論」と題し二月
一日を約束し、当日は草稿も持たず会場に溢れんばかりの生徒達を前
に演説をした。
かくして奥書院は同年春に完成した。蘆花夫婦はこの建物を「秋水書院」と名付けたが、一般に「秋水書院」と呼ばれるようになったのは戦後のことである。
〔説明板より〕
裏に廻ると梅花書屋につながっているのが判ります。
徳富蘆花の執筆作業は、この二つの建物で行われ名著が生まれた
ようです。