しばらく進むと「くにんだなかみち」と刻
まれた龍柱を見つけました。
くにんだなかみち
久米を方言でくにんだという。
那覇市の市道ですが、車止めには竜の
彫刻、歩道には孔子廟、昔の久米の地
図や福州にある琉球館などを紹介する
石版が埋め込まれています。
〔参考:「盛幸タクシーグループ HP」より〕
その先に?
ちょっと中国的な塀に囲まれた寺院(?)
のような建物があります。
何でしょうね?
塀伝いに歩いて行くと、判りました!
此処は福州園という場所。
福州園(ふくしゅうえん)
沖縄と中国の関係は、ある意味沖縄と
日本の関係よりも強いものがあったりし
ます。
那覇の市制70周年記念、姉妹都市であ
る福州市との友好都市10周年を記念し
て、福州園は福州側の資材、設計、加工
で福建州の名勝を模して1992年に完成
しました。
今から数百年前、琉球は明に貢品を納め、
明はその何十倍もの下賜品を返してくれ
ていました。
その中に、福州の特殊な技能を持った
人々が含まれていて、三十六姓と呼ばれ
ていました。
彼等は当時浮島と呼ばれた場所に久米
村をつくって住むようになります。
その久米村の人々は、その後数百年に
渡って琉球王朝の重い役職を務め、歴史
上有名な蔡温などもここの出身です。
いかにも中国的な白壁に包まれた8500
㎡の庭園に入ると、周囲の住宅街とはまっ
たく別の空間が広がっています。
順路に沿って歩いていくと、上手に水を配
したレイアウトのおかげでさほど広くない
園内も全くそれを感じさせません。
〔参考:サイト「沖縄情報IMA」より〕
残念ながらこの日は休園日でした。
道路の向かい側もどことなく中国的な
公園があります。
此処は松山公園。
「久米村発祥地」碑が見えます。
久米村発祥の地 in 松山公園
松山公園内に、「久米村発祥の地」という
石碑があります。
はるか昔、中国の福建から沖縄に移住
してきた人々がいました。
移住者たちは、「久米三十六姓」と呼ば
れています。
当時の琉球において、先端文明をもっ
た移住者である「久米三十六姓」の政
治的・経済的な地位は極めて高く、その
末裔は今もなお、沖縄で大きな影響力
を持っています。
彼らの住む「久米村」は当初城壁で覆わ
れ、対外貿易の拠点・要塞となり、1609
年に薩摩藩が琉球に侵攻した際には強
く抵抗したそうです。
琉球政府の高官を務めた「久米三十六
姓」の子孫は数多く、鄭迥氏や蔡温氏は
いずれも、三司官にまで出世しました。
那覇市牧志には今でも、「蔡温橋」という
名前の橋が残っています。
〔参考:「なんでも沖縄ブログ」より〕
当時の中国人の精神性は今とかなり異
なっているようです。