「西横浜探検」4:レトロな岩亀横丁、岩亀稲荷 | 今日は何をレポートしようかな?

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何でもレポートします。


レトロな豆腐屋

岩亀横丁の標識

昭和なベーカリー

昭和な寿司屋

みなとや食堂

 再び「西横浜探検」に戻ります。

予備知識のないまま寂しい商店街から左に曲がる

と、古い豆腐屋さん。

そこを進むと岩亀横丁の標識が在ります。

この通りの町並み全体がレトロな雰囲気です。

「ベーカリー」と描かれた看板のパン屋さんなど、

建物がみなノスタルジックです。

岩亀横丁(がんきよこちょう)

横浜道・戸部四丁目交差点から雪見橋までを概ね

東西に結ぶ数百mの巾広の道が岩亀横丁です。

『幕府の主導で建設された横浜の遊郭は、安政6

年(1859年)、港崎(みよざき)遊郭として、太田屋

新田のなかに設けられました(現横浜スタジアム付

近)。しかしこの遊郭は、慶応2年(1866年)の大火

で焼失し、羽衣(はごろも)町周辺に移転、そこも

明治4年(1871)年の火災で焼失し、明治5年に高島

町へ移転、さらに明治10年に真金(まがね)・永楽

(えいらく)町へ移転します。

遊郭の中に岩亀楼もありました。曰くはあるようです

が、横浜公園に岩亀楼の石灯篭が残されています。

〔参考:「横浜開港資料館ホームページ」より〕

現在の中区横浜公園のあたりにあった「岩亀楼」と

いう遊廓(ゆうかく)の遊女が、静養のため利用した

寮がここにあったことから岩亀横丁と呼ばれるよう

になったという。

〔参考:「横浜市西区ホームページ」より〕

この場所、聞いたことはありましたが訪れたのは

初めてです。

「みなとや食堂」なんて横浜色満載のネーミングで、

昭和な食堂が在りました。



岩亀稲荷

レトロな通り

三河屋酒店
市民酒場 常盤木

 建物と建物の間に、狭い入口の神社が在りました。

これが岩亀稲荷です。

岩亀稲荷

この一大遊郭の中でも特に目立ったのが、とりわけ

ランクの高い「岩亀楼(がんきろう)」。

岩亀楼の建物は絢爛豪華で、異人客専門の3階

洋風建築、日本人客専門の2階和風建築との二

棟からなり、その見事さに押し掛けた見物客から

お金を徴収して内部を案内していたそうです。

当時この「岩亀楼」の遊女らが静養するする寮が

この横丁(西区戸部)にあったことから、この辺り

を「岩亀」と呼び、寮内にあったお稲荷様を「岩亀

稲荷」と呼びました

遊女「喜遊」の物語

喜遊は町医者の娘。尊皇攘夷の志が高かった父

は捕縛され、江戸追放となってしまう。

生活に困窮した末「異人客を取らない」という条件で、

横浜・岩亀楼に200両という破格値で身を売ること

になるが、器量・心意気ともを兼ね備えた喜遊は

岩亀楼一番の人気者に。

そんなに素晴らしい女性ならば是非会ってみたい

ものだと目をつけた人の中に、ペリー艦隊の軍人

(銃砲商・アポット)がいました。

この軍人は再三岩亀楼を訪れるのですが、喜遊と

しては断固これを拒否。そこでこの軍人は幕府の

役人を通し、岩亀楼の主人に喜遊がその軍人の相

手をするようにと命じたのです。しかし、どうしても

外国人の相手をすることが嫌だった喜遊は、

露をだに 厭う(いとう) 倭の(やまとの)女郎花

(おみなえし)ふるあめりかに袖は濡らさじ

という辞世を残し、自らを懐剣で突くという武士の作

法に習って自害を果たしました

この喜遊の歌は、当時ある種の反米、嫌米感情を表

す言説として瞬く間に世間に流布したそうです。

〔参考:「ローカル・タウン情報 横浜スタイル」より〕

そんな裏の歴史があったのですねー!

このレトロな通りを進むと市民酒場「常盤木」さん

いう居酒屋が在りました。

此処はTV「吉田類の酒場放浪記」で取り上げられた

お店です。

市民酒場常盤木

京浜急行戸部駅から徒歩10分程の「岩亀横丁」に佇

む「常盤木」は、二代目女将と三代目夫婦とで切り盛

りする老舗酒場。

中でもオススメ、横浜中華街で30年以上の経験を

持つ店主の自家製チャーシューやシュウマイは、

地元や長年通うご常連の舌をうならせる。

美味い酒と料理をアットホームな雰囲気で頂くことが

出来る名店

〔参考:「吉田類の酒場放浪記ホームページ」より〕

ぜひ今度入ってみましょう!

次第に横浜のメジャースポットに近づいてきました。