聖餐式/ミサをめぐって | 救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

聖餐式/ミサを巡って。

幕屋(無教会主義)の家庭集会である方が、ボソッと「聖餐式をやってみたい」というような発言があり、それについて少し考えさせられました。

プロテスタンティズム、および無教会主義の旗印が、
「信仰のみ」「聖書のみ」
だとすると、
あえてカトリシズムが言うなら
「パンのみ」
と言ってもいいかもしれません。

教会がミサをやっているというよりも、ミサが教会をつくりあげているほど、ミサは信仰と霊性の源泉なのです。

他方、無教会になると、
個々人が魂の根底で神の霊に撃たれ回心することが肝要で、
あらゆる儀式や秘蹟を排除します。

ミサで信徒に与えられるパン(ホスチア)は、
「本当にキリストの生きた身体である」と信じられておりますので、
余ったパンは聖堂正面にある金庫に鍵をかけ、赤いランプを灯し、
信徒がその前で祈れるようになっています。

他方、幕屋では、
創始者の手島先生は、象徴説を支持していたようで、
聖餐式よりも、キリストのみことばに「トローゴー」(むしゃぶりつく)するということを言っていましたが、
実はその話が私が一番初めて読んだ話で、
立場は違うものの、生きた神が働いている証に非常に感激したのでした。

信徒の中では、
集会後のパンを配って食べる時、
「教会ではパンを単に象徴だとしますが、私たちはこのパンが象徴でなくして、真にキリストの身体ということを信じます!」「アーメン」
というようなことも。

私にとっては、どちらが正しくてどちらが間違っているというものではなく、
間違いなくどちらも、
「直接、魂が神に触れられ、深く交わる」点においては、変わりありません。

私の感覚としては、
ミサは、
親が幼児にご飯を与え、分かち合う食卓、
そしてそのご飯は、キリストが十字架の上で自分の身を割いて、その命を与えてくださるものです。
自分の血液を乳に替えて、子どもに授乳するように、
神が直接、食べ物となって私たちの生命に糧を与えてくれるものです。

しかし、この儀式を、無教会主義でやるとなると全く白けた不純物になってしまいはしないかという懸念と、
もし霊とまことをもってなされるなら、無教会が見落としがちな何かが呼び起こされるかもしれないとも思います。

さて、

ミサ、聖餐式については、
無教会の高橋三郎師から次のような批判の論文があります。

https://www.netekklesia.com/untitled-c1vmu

キリストの身体であるパンを管理、保持する司祭階級ができたことで、
権力と結びついたことで、すっかりキリスト教は神殿宗教と化してしまったというのです。
また、一歩間違えれば、「魔術」になるという危険性も指摘しています。
パンが、ミサという儀式の中で、特権階級である司祭の手を通してのみ、キリストに変化し、教会制度を離れては人は救われないと救いを特権化するのです。

同時に、氏は翻って、自らの無教会の現状についても、極めて反省的な批判を投げかけます。

さて、
カトリック信徒であった故渡部昇一、上智大学名誉教授がミサにおける実体変化と歴史の流れにおいて次のような興味深い文章を残しています。

http://www.nomusan.com/shibuki/65-seihenka.html

パンが実際にキリストの身体になる、、、
正確には、キリストがパンになって私たちの糧となることは、
側から見れば全く理解できないことですが、
この点が、
宗教改革の時代、燎原の火の如く広がったプロテスタントを食い止めたというのです。

個人的な実感で言うと、
ミサと御聖体には確かに力があります。
キリストを食する私が、却ってキリストに変えられていく幸いを覚えます。

ミサ、秘蹟は、見えない神が見える形となって私たちの現実世界に置かれたもので、そのありがたみは計り知れないものがありますが、
一方で歴史の中でそれが特権的なものや、権力、エゴと結びついたことも、
単なるありがたい儀式になることも、事実。

ミサはどんな司祭がやっても、犯罪を犯す司祭がやろうと、教皇がやっても、カリスマ神父がやろうと、
恵みは全く変わらないわけですが、

それでも、やっぱりカリスマを持った司祭が司式をすると、
ミサが始まった瞬間に、ありありとそこに神が臨在して、
聖霊が満ち溢れている、
ミサこそが最高の人生の目的なのだと否応なく感じられもうこれ以上は何もいらないと思えてしまう不思議。

あの、伝統だからで形だけ変わらずに続いていると思っていた儀式の一つ一つが、
全く無駄も過不足もなく生命をもって、永遠と私たちの魂の通路を開いてくれるのです。

とかく、まあ、神様からしてみたら、
親心といいましょうか、
いろいろ人間に対して救いの道を用意してくださっているわけですが、
その道を歩む個々の魂からすれば、その根底に「これだ」という中心が必要になってくる。
それらは同一であることはないものの、「絶対」です。

それらの矛盾する絶対の架け橋として、普遍性というものを模索していけたらと思っています。