天皇制とキリスト教。 | 救魂録

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カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

天皇制とキリスト教という非常にデリケートな問題を、
あれこれ多角的に調べて、考えているところです。

「相互に深いところで繋がっているものゆえに互いに手を取り合い、尊重し合うべき」
なのか
「根本的に水と油で永遠に相入れないもの」なのか。

「愛国心なり、信仰心が、暴力に結びつかないためには、どうすればいいか」
ということです。


私は子どもの頃から、神社やお寺が大好きで、通りかかると必ず参拝するし、
その習慣は今も、というか、ますます深くなっています。

また、天皇の祈り、一番弱いところに寄り添い、ともに歩む姿勢と、
キリストの姿勢は、(私にとってですが)やはり同一志向にあると感じます。



最近読んだ三冊の本。


『タイムっち なぜ天皇が神サマになったのか』
日本のキリスト教がいかに、国家神道に取り込まれ、戦争協力をしたのかという過程をコミカルに漫画で描いております。









『天皇論 平成29年』小林よしのり






『愛国者は信用できるか』鈴木邦男
プロテスタント系の高校で宗教を押し付けられた挙句、単語帳を燃やされ、怒って教師をぶん殴って半年遅れで卒業。
大学時代から、かなり過激な右翼活動を何十年間続けてきた著者が、
「叫ぶのが愛国心なのか?」と疑問を呈するわけです。







●一神教のGODと、日本の「カミ」がどちらも同じ「神」と呼ばれていることが問題なのではないかと率直に思います。
これは、キリスト教の側も、神道の側も「違いますよ」と明言しているのですから、
はじめから、「違いますよ」と言っておけば良かったのではないでしょうか。

前者が、無から宇宙万物を創造し、主宰する超越者であるのに対して、
後者の「カミ」は敬語に近いもので、宇宙の根源を指すものとは限らない。
つまり、純精神的な被造物となります。
古事記では、「宇宙の起源」は曖昧にして、神々を調和させ共存させているように思われます。

天皇は、「アキツミカミ」であって、GODではないことは常識で、
戦前の人たちもそう捉えていたようです。
戦時中の一時期に、「小国民」などのメディアがそう煽り立てた。

ちなみに私は、天使の存在を信じて黙想するのと同様、
神社の神様をとても身近に感じて、感謝しています。
でも、それは、敬い感謝はすれど、「親」でないし、崇拝される「神さま」としても迷惑でしょう 笑


●武力を用いて、植民地支配を試みたのは、
西洋キリスト教も同じ、というか完全に「うしはく」統治であった。

迫害者である一方では、迫害も受けている。

キリスト教が、それ以外の全ての伝統的な宗教を、「偶像」「邪教」「悪魔」と忌み嫌い、
ぶっ壊すことだけは、嫌だ。
ザビエルとイエズス会はそういうことをしている。

一方、
天皇制と結びついた政治が、
偶像化され、
国家転覆を図る意図もないキリスト教を弾圧するのも悲しいことです。



●戦時中、国体は、天地の創造主である神よりも上に置かれた。
やはり私の身近にも、投獄されたという牧師を聞きます。

●内村鑑三の不敬事件。
御真影でなく、教育勅語の署名への最敬礼をしなかっただけで、公職を追放される。

●JAPANとJesusという二つのJは調和するのか、それとも対立するのか。

●1928年の『長崎カトリック時報』においては、
日本国民であること、忠君愛国の精神が大切にされ、さらにその上に、カトリックの祈祷が大切にされていたようであることがうかがえます。


●天皇制は古来からの神話以上に、国民との信頼関係によって紐帯が築かれている。

●対象が、いかに尊く聖なるものであっても、
戦争の時に、あらゆる要素が総動員される過程において、そのために国民をまとめ上げるために利用される。

●天皇陛下を一番苦しめ、激怒させているのは、過激な右翼。

●昭和天皇自身、「天皇機関説」を支持し、また合理的な科学者でもあった。

●天皇陛下には人権はない。
強制的に「やらせている」のか、
敢えて、「やっていただいている」のか。

●人を排除しない、差別しない「愛国心」は可能だったのだろうか、
また可能だろうか。
これは、信仰や宗教に於いても言える。

●愛国心が暴走するからといって、それを「全て」否定することはやりすぎではないか。

●愛国心が押さえつけられたら、その後反動的に過激な論調の愛国心がシーソーのように噴出する。