東京での出逢い その1
私が人に会いにいくのはなぜかというと、
新しい自分自身、というか、
もともと自分の中にある素晴らしいものを外に出していくきっかけとの出逢いなのかもしれません。
伝染病のように、愛が伝わっていく。
私にとって、「カトリック教会」は、
「悪くはないけれど、退屈」な場所でした。
「本物」は確かに保持しているのですが、埃をかぶりまくったランプのようなもの。
成熟し切って土着化した、もうこれ以上変化の望めない一伝統宗教の一つ
単なる儀式を繰り返し、二千年前の神様の現代に通用しない教えを、ボソボソと説明し、生きているだけで苦しい自分の心には届かない、
老朽化した壁の中に固まり、
神や信仰のことでなく、ローカルな世間話だけが交わされるだけで、
キリスト教内でしか理解できない文脈の多いこと、
どこか、燃え上がるものがない、
本来のポテンシャルを持て余しているそうした退屈な場所でした。
若者が、日本人では私以外片手で数えるほどしかいない。
ネットでは、それこそ、
「クリスチャンかくあるべし」みたいな息の詰まる禁止事項の羅列、
「聖書や教理で叩きあいをする」現代の宗教戦争のような様相で、
新興宗教からも「律法学者の集い」と揶揄され、「今キリストがいるのはうちだ」と言われる始末。
、、、これ以上の描写はやめましょう。
ボロクソ言ってますけれど、あくまでも、本当に一部です。
私が、無教会主義を経験したり、何教何宗の枠にとらわれずフリースタイルでさまざまなところを学んできたのも、
やはり、生きた本物に出逢いたい、という憧れがあったからです。
心の奥底で、
スピリチュアルな進化や、願望の実現に還元しえない、
それをこえた、本当の幸せが、偽りなき愛の中にあるという憧れがあったと言えます。
そんな既存のイメージを570度覆した、
というか、「本当はもともとこの愛の交わりだった!」と実感させてくれたのが、
「はれれ」こと晴佐久神父との出逢いでした。
何教何宗をこえた神の愛の普遍性を宣言し、
福音家族を実践する。
どのミサも永遠の今というミサ。
一つ一つのミサが、どれほどかけがえのないミサであったか。
どれほどの魂が救われたか。
一週間のうちの一時間でなく、
神様が集めてくださった聖なるミサ。
どんな恐れも悩みも吹き飛ぶようなギュッと凝縮したミサ。
あと、何百回というのではなくて、
これがあれば十分だというミサ。
「これが最後のミサでも構いません」という想いで、はれれは毎回ミサを捧げている。
続きます。