編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks -68ページ目
解釈的循環にも陥ることなく、

対象化の不確実性にさらされることもなく、

〈自分込み〉の仕事と思えるのは、なぜだろうか?


太陽と月の距離と大きさについて

アリスタルコス(紀元前310年 - 紀元前230年頃)は、

日蝕の観察から、地球と月と太陽の位置関係を推理し、

それを幾何学的に定位し、古代のコペルニクス

(地動説)と呼ばれるが、

この図を描くときの彼の姿は、

無心に砂場遊びをする子供のように想像されている。

上の図の「なかに」アリスタルコスがいること、

そこに内包されているからだろうか。

現代の理論物理学による宇宙論も、ちょっと内包的だ。

対象のもつマクロ包括性が、循環性を免れさせるのか。

同じ包括性を持つと思える国家の対象化が、

そうはいかないのはなぜか。

アリストテレスが天動説を唱えたのは、なぜか。