≪終わってしまう前に、終わらせよう≫☆「災後」に読む和辻哲郎☆
以下、この括りでなぜヘーゲルなのか?を含めた、本日午後2時開催に向けてのレジュメ草稿です。
(なお、この記事のテーマ・カテゴリ名〈フィロソフィア・ヤポニカ〉は中沢新一さんの同名の書名から採りました。いずれこの本の主題とも交叉していきます。)
■手始めに、ということで京都学派の中心人物である西田幾多郎『善の研究』も候補に挙がっています。京都学派に限らないことでしょうが、この時代1930年代にはまずヘーゲルの「弁証法」が当たり前のように使われている。もう一人の学派の主要人物である田邊元は独自の〈絶対弁証法〉も展開しています。それはさておき、和辻哲郎の『倫理学』では、記述の運びにヘーゲル弁証法を導入しているのみならず、「第三章 人倫的組織」では、ヘーゲルのSittlichkeitの段階発展をベースに「二人共同体」から「国家」に至る展開を記述している。和辻だけではなくヘーゲル弁証法は、当然のように「使いこなされていた」わけですが。
■で、今回使用することになった長谷川宏さん訳『歴史哲学講義』岩波文庫では、いきなり重要な訳者による「凡例」に出くわします。
五.原書に頻出するSittlichkeitは、「人倫」の訳語をあてるのが通例だが、本書ではこの訳語はとらず、文脈に応じて「共同体」「共同精神」「共同の倫理」「共同感情」「社会性」「道徳的」などの訳語をあてた。確認してませんが、このSittlichkeit、「国家」という訳語が当てられていることもあるようです。
この長谷川宏氏の訳し分けは、和辻が『倫理学』第三章をどう展開したか、ヘーゲルを踏まえつつ、どう変奏したか、しなかったかを読み込むのに役立ちます。
■ヘーゲル『歴史哲学講義』は毀誉褒貶の激しい作のようですが、もっとも知られているのは「理性の狡知」(長谷川訳では「理性の策略」)でしょう。これは理性に付属する歴史、進歩史観にも通じるある種「目的史観」のミソとも言えるものですが、ここを和辻がどう考えたかは重要です。
■先回の議論をY氏がホワイトボードにまとめてくれた「読みの戦略」としては、和辻の『人間の学としての倫理学』のなかでもヘーゲルを再読することは重要です。ここで和辻は、ヨーロッパ哲学の流れのなかにヘーゲルを置き、俯瞰力を発揮して述べています。僕なりに要約すれば、「和辻はプロテスタンティズム枠内にあってSitteの客観性を外部化しえたカント主観的意識問題と、プロテスタント精神への反抗を経たヘーゲル共同態=生ける全体性意識問題との差異に見る。」
■「理性」という語の使い方は、半世紀前のカントの方が整然としています。これは何か?について和辻の俯瞰は教えてくれていると思います。
■なお、和辻は『人間の学としての倫理学』のヘーゲルの章をヘーゲルのドイツ語テキスト「人倫のシステム」を首っ引きで日本語にし、ノートするように書きながら書き進めている。
■さらには、和辻は『倫理学』序言で、フッサールの言葉をフッサールという名を挙げることなく、当然のようにあの標語「事象そのものに還れ」を引用しているところを見ると、全体に現象学的方法を意識しながら、否定の否定、反して還る、など運びの論理としてはヘーゲルの弁証法を使いこなそうとしている。そしてそこに仏教の〈空性・空〉を組み込んでいる。これなどは西田の影響かも知れない。同時に、和辻にあってヘーゲルにはないものです。
以上を念頭に、以下はヘーゲル『歴史哲学講義』から拾うべき箇所を引用してレジュメを完成させることにします。
【Y氏がホワイトボードにまとめた読みの戦略】
【突き合わせcompare with/check against読みフルセット7冊】
いずれここに西田幾多郎『善の研究』が加わる。
同時に噛み合わせていくやり方もあるが、初参加の人が混乱するだろうから、そこは穏当に進めようw
《和辻哲郎と京都学派》の括りで、ヘーゲルを読むワケ(2)|編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks
に続く。

