広義の京都学派、終端。|編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks で、山田宗睦さんは、とくに科学の話をされたわけではないと書いたが、質疑のときに「銀河系とアンドロメダ銀河の衝突合体(Andromeda–Milky Way collision)」を引いて地球の余命5億年ということを言われた。
あまりにもZeitgeistに囚われ過ぎと思える質問に対する拡張論法だったと思う。
ただし氏がもっとも重視するのは〈現世〉だ。
しかし現世主義とはまったく異なる、と思う。
それから、これは僕が資本主義システムの縁ないし淵と呼んでいる(呼んでいるだけで内包はない、今のところ)ものへの大きなヒントとなりそうな「湯川秀樹とカミオカンデ」の話をされた。
これはもう少しきちんと展開すべき重要な主題だが、とりあえず記憶の新しいうちにメモっておく。
ただ非常にわかりにくいと思う。
要点は天才を必要としない時代が構成されている、ということ。
それを嘆息するわけではなく、世界がそこまで押し上がった、押し上がってしまったということだ。
山田さんの京大学部生時代の逸話だろう、
「どなたか空(ウツ)ろであって、空ろでない空間を考えてくれませんかね」
と言いながら通り過ぎた人がいた。
誰だろうと思っていたら、後で確かめると湯川秀樹だったという話。
確かに湯川、朝永、南部の時代に比べれば、カミオカンデは理論というより、装置であり工学的な世界だ。
これが社会にまで達している、という話になる。
現世の実験装置が、何かを超出していく。
現世の技術が超越性を持ってしまった、というか。
これは、氏が卒業論文「人間の救済と論理」(1946年)で重視した〈現世〉とは異なる現世的超越性というべきものの出現を指している。
吉本隆明が『ハイ・イメージ論』で指示した世界にも近いかもしれない。
たんに技術ではなく、よくある技術批判でもない。
とりあえず〈装置〉、と呼んでおくのが穏当かと。
われわれはその上に乗っている。
それが、l'etre du mondeである、ということへと遷移する事態を、どう呼ぶべきか。
ヒント?は宇宙ステーション?
(続く)