感受点と「政治」の概念(1) | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

近代的制度としての「教育」なしには「政治」という言葉は万人に浸透することはなかっただろう。あと毎朝配達される日刊「新聞」と。調べなくとも、語としては明治時代以降に決まっている。江戸の熊・八が「セージ」なんて言葉を使うわきゃねえ(「政:まつりごと」はあっても、やっぱり熊さん八つぁんは、知ってても使わんかったろう)。


たとえば「安保」「共産同(ブント)」なんて言葉が頻出する記事や本や映像を読んだり見たりすれば、誰もが「政治」の話だと思うようにできている、なっている。


しかもサヨクね、とかウヨクね、と「分かった」気になれるほど、みんなお利口になったみたい。


それにしてはたとえば共産同が同じ共産主義でも共産党とは徹底的に敵対した党派であることまでは分かっちゃない人がけっこう多い。どうせ「分かった」って言いたいならそこまで知れよだが、そんなこたあどうでもいい。


そもそも同じ「共産主義」ってなんだ? そんなものはありえない。あたかも「同じ」であるかのように強制力を差し向けたのはあとにも先にも旧ソ連型共産主義だけだ。これを「スターリニズム」に過ぎないと喝破して日本共産党と袂を別ったのが共産同。歴史的にはそういうことになる。


さらに、共産とは党派の名前に過ぎず、旧ソ連が実現したのは社会主義であって、共産主義はどこにも実現されていないことになっている。歴史的にはそういうことになる。


語というか概念が、クソミソにされているのは「ウヨク」も同じことで、問題はそんなところにはない。つねに無い。


第一、「政治」と「政治的」の月とスッポンほどの隔たりを、感受するのは相当難しいだろう。


「政治」と言えばたいてい「政治家」と熟す。「政治的」と言えばたいてい「政治的発言」などと熟す。「政治家」と言えば、たいてい「国会議員」さんに代表される議員さんたちのことだ。


だから余計に「政治」がわからなくなる(頭が痛くなるほど分からなくなるのなら、それはそれでけっこうなことだと思う)。「政治」?という疑問さえ起きないほど分からなくなっている。それを「お利口さん」と呼ぶのだ。


それは政治じゃなくて「政府」行政機関の仕事ぶりのことなんじゃないか?


「外交」は「政治」とは別次元のことではないのか?


「軍事」も「政治」ではないのではないか?


「法案」作成も、それは「政治」とは別のことではないのか?


要するにすべては「公理」主義的にできている。


その空集合は「国家」だ。


「天下国家を論じる」の国家だ。これ最初は明治の講談師かなんかが使ったのではないかと憶測する。


それが「演説」に転移する。


一種の「歌」だ。


「政治」はむしろ、確定申告書を提出する役所の窓口でのやりとり、家賃を滞納せざるをえないようなとき、禁煙ルームで吹かしたときに生じるトラブル、地上げとそれに対する抵抗、商店会と大企業を代表する自治体の交渉、そういうミクロな場面に発現する。


選挙の投票所で発現するわけではないのだ。


強いて言えば、国会での必死の質疑にも政治は発現しているのかもしれない。


しかしそれを「政治」と呼ぶ意味は?


「実践(活動)」?


ところでだ、そもそも「思想と実践」なんてもんはないのだ。


それが思想の名に値いするものでもしあるならば、思想が実践である。今日の「政治」に思想はない、微塵も。


(以上、論証なしで、しばらく放置する)