山本義隆『福島の原発事故をめぐって』読書メモ6:休廷だ。法廷を出よう。 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks
ゼイタクというものは 万人が、多くは「たまにはしてみたくなる」ものだし、しているもの、そういうものでもある。今日は子供の誕生日なので、ちょっとうまいもんでも、という感じだ。「ちょっとしたゼイタク」は、財力の多寡を問わない。

それでは万人が共有する「ちょっとしたゼイタク」と「原子力発電というゼイタク」は、どこが違い、どこが重なるのか?

違いもしないし、重なりもしない。

というのが正解だ。

その証拠に、この本の著者を含め数々の論客や論調がすでに80年代から原発批判を繰り返してきている。ひたすら恐怖心に訴えるような生理的「反原発本」以外に科学技術内在的に本来の意味での 原発の限界を明らかにしようという努力は、この国でも行われてきた。なかには経済的合理性の面を指摘する論点もあったはずだ。

これを「原子力発電というゼイタク」の指摘としてもいいだろう。

しかし事故以前に「こんなゼイタクいらない」という意識は、芽生えたためしはない。空気を吸って呼吸することで生きているが、空気を意識することはめったにないのと同じだった。

「隠蔽体質」というのはたやすいしそれは事実そうだった。しかし万人にとっての空気のように隠蔽されるものが、原発にはある、あったということを見過ごすことはできないはずだ。だからこそ僕を含めて、まんまと隠蔽を隠蔽とも意識せずに来たのだ。

それは危険性の隠蔽ではなく、そうあるしかない隠蔽である。隠蔽されていなければ、誰も一瞬たりとも生きていることなどできないような隠蔽。それが明かされてしまった日には、誰もが視力を失うかもしれないような隠蔽。

そこはおくとしてもなお、もし「原発裁判」などというものがあるとすれば、それら優れた論証の多くは「参考人」、有罪を主張する検察側の参考人として招致されて「終わる」。

実際、原発立地地域では事故以前に建設反対の運動や訴訟が行われてきている。しかしそれは、訴訟というレベルでは、原発以外のさまざまな「公」「私」間の闘争のなかに一般化される側面を持つ。空港誘致反対と原発誘致反対は、その意味ではまったく同型なのだ。

「利権」がからむという点もまったく同様。最後はカネがモノを言ったりするというところも同様なのだ。

その意味で福島の人々が「原発憎し」という感情に襲われ、原発反対を唱えることを僕は全面的に支持する(反原発一般ではない)。

しかしなぜか、原発建設については三里塚・成田のような反対闘争 は起きてこなかった。起きなかったことの是非を問いたいのではないし、一方で 山口県上関のように住民を二分する原発建設をめぐる紛争が3.11以前から延々続いている事実もある。しかしそれらを言挙げしても、ここで言いたい同型性は揺るがない。(この同型性については有力な参考人をこのあと招聘しておくが)

言いたいのは、なぜ黒か白かの法廷のような二値論的図式に原発をめぐる意識は視野狭窄していくのか、ということ。法廷の例で言えば、福島の人々は明々白々、福島原発の「被害者」だ。その怒りは、けっして視野狭窄ではない。しかし人々は法廷にいるわけでもない。

そして福島を離れ浮き世離れした思考実験においてさえ、あらゆる優れた論証がすべて「参考人」的な機能に収束してしまう。

つまりこれはディベートであって、それはつまり思考停止のお化けなのだ。 「ゴキブリを好きな人はいない」という結論ありきのディベートに向かうという意味で思考停止以外の何ものでもない。

このことを踏まえたうえで、ここで空港誘致と原発誘致建設の「同型性」を否定しうる有力な「参考人」意見をあげておく。「原発裁判」で有罪を勝ち取りたい優れた検察官なら必ず採用するだろう。

「原発事故を蒸気機関の創生期にあったような事故と同じレベルに捉えることは根本的に誤っている。原発以外では、事故の影響は時間的・空間的にある程度限られていて、事故のリスクはその技術の直接の受益者とその周辺が負うことになる。それにたいして原発では、事故の影響は、空間的には一国内にすら止まらず、なんの恩恵も受けていない地域や外国の人たちにさえ及び、時間的には、その受益者の世代だけではなくはるか後の世代も被害を蒙る。実際に福島の事故では、周囲何キロかは今後何世代にもわたって人間の立ち入りを拒むスポットとなるであろう。──山本義隆『福島の原発事故をめぐって』57頁」

笑おう。思考といのちとどっちが大切なんだ!
という声が聞こえてきたから。まったく噴飯物だ。

判決に向けて、あらゆる営為は消滅する。残るのは書記が書いた記録と判例だけだ。
(法廷を否定しているわけではない)。

しかしそれこそが、生きることの否定ではないのか。

人の営為、歴史の一切が、 原発を通過することで すべてがウンコに変わる。そして、しかし、

そこで救いたいのは、「原発でもなければ、人のいのちでもない」。

救いたいのは、「原発でもなければ、人のいのちでもない」。

もう一度言う。

救いたいのは、「原発でもなければ、人のいのちでもない」。

では、何が救われるべきなのか?

こういう問いに逢着させてくれないような「参考人」の一切を、
僕は認めない。




法廷を出よう。休廷だ。





註)参考人(さんこうにん)とは、ある事柄や事件について参考となる意見や専門知識、情報などを有している者をいう(Wikiprdia)

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