山本義隆『福島の原発事故をめぐって--いくつか学び考えたこと』読書メモ2 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

三.科学技術幻想とその破綻


に飛んでみた。


以下、要旨編集と引用。



:「科学技術」というのは科学と技術、ではなく、「客観的法則として表される科学理論の生産実践への意識的適用としての技術」を指す。

:17世紀科学革命と言われる西ヨーロッパの文化変容に始まる。「それ以前までのヨーロッパでは、哲学、神学、文学のすべての世界で、技術は自然に及ばないと考えられていた」


「13世紀中期の『薔薇物語』にも「〈技芸〉は自然の前にひざまずいて猿のように〈自然〉を真似る」が「けっして〈自然〉には到達できない」と記されている。」


:これがルネサンス期に大きく変化する。


「自然魔術師や職人・技術者たちは、実験による試行錯誤を自然認識あるいは自然力の技術的使役のノウハウの開発にとって有効な方法として提唱した。」


↑このあたりアガンベンの『瀆神』と併せ読みすると面白いかと↑


「それでも彼らは。自然に対する畏怖の念を中世から受けついでいた」


:フランス革命


:電磁気学の形成→1800年 ヴォルタによる電池の発明


:電気文明の始まり


:1895年 ヴェルヌ『動く人工島』


:1934年 戦前の電力会社・東京電燈 社長 郷誠之助の述懐

「吾々はむろん資本主義瀕死説を肯定するものではない。だが、盤石を確信せられ、永劫を信頼せられたる資本主義も、今に到りて動揺の兆あるを看過する訳には行かない。無条件なる楽観主義者は世界のこの大勢に眼をつぶらんとするか。イタリーに於けるファシズム覇権の確立、ドイツにおけるナチス新政治経済組織の樹立、アメリカに於ける産業復興法を基礎とする国家意志による国民経済の全面的統制--如斯きは、実に資本主義史上の新現象ではないか。資本主義は今や画時代的修正に直面するといふも過言ではあるまい。」


↑資本主義の変容を契機とする国家総力戦体制(資本主義国家間の内ゲバ第一次世界大戦に続いて)


:国策として進められる巨大科学技術の宿命


「プロジェクト自体が人間を飲み込んでゆく」


(続く)


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