鈴木清順より岡本喜八、って気分。(あの80年代ロマン三部作についてはまとめておこう追悼記事。原作→映画化の手前に在る〈原フィルム〉について。『けんかえれじい』は別格。Requiescat In Pace.)

posted at 10:33:19

〈原フィルム〉という語を思いついたのは、このツイートをした2月24日のことで、鈴木清順監督の訃報に接したのがきっかけ。『チゴイネルワイゼン』か何かの映像を観て、「原作(文字)」と映像の距離に当てられたことからだった。しかし申し訳ないが、あくまできっかけであって鈴木監督作品固有の何かではない。

 

 

しかも原作と映画映像のあいだ、というか何かを読んでいるときに既に在る、生成されるものとして考えられたものなので、この写真のようないわゆるフィルムでもない。だから〈原フィルム〉なのだ。

 

この概念仮構は、いま漢文の先生と試みている〈映画を読む〉ということについて、それがただ比喩ではないことを記述するのに役立つだろう。

 

映画の原作、つまり小説などを〈読む〉のは当たり前として、〈映画(テレビドラマなど含む映像)を読む〉というときの〈読む〉は、レトリックやメタファーでなく、同じ〈読む〉ことであること、そのように〈映画を読む〉ことは成り立っている、ということを言うために〈原フィルム〉が効いてくるはずなのだ。

 

要するに映画化される前の原作を読んでいるときに読まれているのも、映画化された映画を観ている=読まれているのも、原作と映画に共有されているはずの〈原フィルム〉なのだ。

 

そして矛盾するけれども、この原フィルムは、容易には言語化されえない。見えないモノ、見える物という図式でいけば、〈見えない〉側にある。見えないが作動している。

 

仮に〈映画を読む〉と名づけている試みは、この見えにくいものが映画映像では表出されている、という仮説に立った試みだ。で、その表出されたものをなんとか言語にもたらそうとしているのがコラボレータである漢文の先生。その過程で彼は、大量の「図解」を産み出している。

言語化しにくいからでもあるだろう(これを僕は〈図文〉と呼ぶことにしている)。

 

さて、さすがに込み入った話になりつつあるので笑、〈映画を読む〉の〈読む〉が修辞的比喩的表現に過ぎないものではない、ことを試みの水準とは別の水準で示すことのできる概念を別に見つけたので、これをメモって取り敢えずメモ1は終えることにしたい。

 

それは〈 ドラマツルギー (dramaturgy) 〉。

 

これは文字通り、演劇の世界から生まれた言葉として比較的よく知られる語だが、、 アーヴィング・ゴッフマン によって「日常生活における人々の社会的相互作用の仕方を解明する方法論」として 社会学的な記述の仕方としても展開された。

 

これをもってすれば、この水準での〈映画を”読む”〉は、比喩ではなく読みそして記述されるための方法としての地位を獲得できるだろう。

 

ただし言語によっては記述されにくく、とりあえず〈図文〉として定着されるつつ〈原フィルム〉の表出記述の水準に到達できるわけではない。もちろん記述しがたいものを記述し定着する〈原フィルム〉は文芸作品のなかにも漢文の先生によれば特定的に存在する。しかしそれをあらためて示すには作品に対して図解=〈図文〉化の作業を施す必要に迫られる。

 

 

 

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