絵画と見ること(2)
実は、この記事タイトル、
絵画と見ること/絵画を観ること。
「と」と「を」のツービートというか、
オフビートのお題になっている。
山口喜造個展のリーフレットに寄せる詞書きのための外堀埋めの作業を兼ねて。
絵画はいったんカッコに入れるとすると、
こちら側の視覚の仕組みはさておき、視覚の対象(つまり「見られるもの」)は、たとえばいまこの記事を書くために打ち込まれていく文字は、ディスプレイを介することで「見えるもの」になっている。もちろん、光もかかわっている。
いまさらながらディスプレイというのは、かいつまんでしまえば、微少な「点(ドット)」の集まりで出来ている。ブラウン管の場合意は走査線だが、これも古いテレビに目を近づけてみれば肉眼で確認できるとおり「ドット」の網目の集合だ。
ドットは「実体」であると同時に、文字や画像の解像度に関わる単位で、デジカメの写真の精度もドット・パー・インチdpiが関わっている。
山口ペインティング・ワークスは、まさにこのドットの世界に人を誘い込むワークで、僕は初めて作品を目にしたとき以来、「ドット・ゼロ」と呼ぶようになった。
なぜ「ゼロ」なのかは、ここには書かないというより、まだ書けない。リーフレット本番にそれとなく匂わせることしかできないだろう。ロラン・バルトのエクリチュールの零度にも近いものがあると思っているけど、絵画展の詞書きに忍び込ませるのは、けっこう難儀だ。
アプリやウェブのグラフィックを作っている人にはおなじみの、アイコン作成の世界にも通じるものがある。
しかし、これらは「絵画」ではないだろう。
では、どこが違うのか?
マニエラとしてマチエールとしても確かに違うことは明らかなのだが、さらには、
山口喜造ペイティングワークスは、はたして「絵画」なのか?
「絵画の概念」とは何か?というところまで沈んでしばらく待つと、
ぽっかり浮かんで咲く、ような言葉になるといい。
絵画と見ること(1)

















