山本義隆『福島の原発事故について』読書メモ(10):生命付与的でありながら致死的でもある力 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

この本は、あるいは「思考の潜勢力(アガンベン)」の可能性を見出す方向で、それぞれが構想を展開していくための「序の口」にあたる本と言えるのかもしれない。そのためには、科学史オタクとしてのリキミ過ぎるほどの読み込みの姿勢も必要とするので、一般的な評価(高低含め)からは、かけ離れてしまうのだろうと思われる。


たとえば山形浩生は、この本を軽くいなしている。「具体的な工程を示せ」、と言いたくなる気持ちはよくわかる。僕も同感だ。しかしそれは「事後」に書かれた本のすべてが多かれ少なかれ持つほかない限界だ。何よりも科学史家に「具体的な工程」を求めるのは無理がある。


そう、なんと言おうと「事後」なのだ。


「事前」の優れた批判さえ、その「事」を押しとどめることはできなかった。だから、なぜそれが、それでも出来(しゅったい)してしまったのか? そのことに驚きを覚えるべきだし、その「なぜ」こそを、問うておく必要がある。


そこを山本の本は、科学史内在的に迫ったという意味では大きな成果であるはずだ。


たったいま降っている放射能をどうしてくれる!という物言いは、死んだ人間を生き返らせてくれと言う悲痛な叫びに近い。しかしそういう叫びは、肉親を目の前で事実亡くした者にしか許されるものではない。少なくともこうして「議論」が出来ている者同士の間では、そういうことになるはずだ。


どういう椅子に座って、あるいはどういう廃墟で、どういう機縁と気炎によって読み始めたかで、同じ一冊の本の評価も月とスッポンになるいい例だ。こういう例は、そこらじゅうに転がっている。


いまこうして、本を読む猶予を与えられ──いつまでそうしていられるのかは、さっぱりわからないけれども──考えることを許されていることに感謝しつつ、今後のヒントになるかもしれない、けれど「事故」とはまるで直接は関係ないだろう本から短い言葉を引用して、とりあえずの締めくくりとしておこう。


「そもそも生命付与的でありながら致死的でもある力が同じ一つの源、すなわち言語から、どのように発生するのか? みずからの創造力によって最終的に苦しめられるこの自縄自縛型の動物とはいったい何なのか?──テリー・イーグルトン『テロリズム 聖なる恐怖』」



事故発生前史


12世紀 西欧は古代ギリシアの学問を見出す
「すべての技は、創造主の技か、自然の技か、自然を模倣する職人の技のいずれか」であり、「創造主の作品が完全である」:アリストテレス哲学に開眼したシャルトル学派コンシュの一員ギヨーム
13世紀中期 『薔薇物語』
14世紀~16世紀 ルネサンス期間に変化が起きる
15世紀末
「人間は神的な生き物であって・・・神々と呼ばれる者にこそ比べられるべきである」(『ヘルメス文書』)に影響を受けたピコ・デラ・ミンドラの『人間の尊厳』(ヒューマニズム=人間中心主義の淵源もこのへんにあるのではないか。「人間復興」などという訳語を当てたのはいったい誰か?「人間増長、成り上がり」のほうがより正確かも-岡田))
16世紀 ルネサンス後期
自然魔術師、技術者、職人が蓄積ししてきた技術ノウハウを印刷出版によって公開する16世紀文化革命(山本義隆の命名)を経て科学革命へ
1589年 ガリレオのピサの斜塔の実験 
17世紀科学革命 西ヨーロッパの文化的変動
「あの観念的なデカルトでさえ、屈折光学の研究において「研究など一度もやったことのない職人の技巧に頼らねばならない」と記している」
「この時代にひとりヨーロッパ文明だけがこの両者〔思弁的な論証知と技術的な経験知〕を結合させることに成功した(山本p64)」
1604年 ガリレオ「落体の法則」;「思弁と経験を結合するはじめての仮説検証型の実験」によって導かれた
17世紀の論客たち(マッチョだよ、この人ら-岡田)
「自然の秘密もまた、その道を進んでゆくときよりも、技術によって苦しめられるとき、よりいっそうの正体を現す」フランシス・ベーコン
「私が元素の混合によって生ずるといわれている諸物体そのものを試験し、それらを拷問にかけてその構成原質を白状させるために忍耐強く努力したとき」ロバート・ボイル
「自然は、より穏やかな挑発では明かすことのできないその秘められた部分を、巧みに操られた火の暴力によって自白する」ジョゼフ・グランヴィル

(魔女裁判を思い出しませんか?-岡田) 「攻撃的な実験思想」

「これとならんで、ケプラーやフックやニュートンによって、かつては魔術的文脈で語られていた自然の力にたいする物理学的で数学的な把握-力概念の脱魔術化-が進められていった」→科学技術による自然の征服という思想へ
1620年 「技術と学問」は「自然に対する支配権を人間に与える」 (『ノヴム・オルガヌム』ベーコン)
1637年 「私たちは自然の主人公で所有者のようになることができるでしょう」(デカルト『方法序説』)

ガリレオの実験思想 デカルトの機械論 ニュートンの力概念による機械論の拡張、ベーコンの自然支配の思想

「近代科学は、おのれの力を過信するとともに、自然にたいする畏怖の念を忘れていった」

「しかし、(略)なおしばらくは経験主義的な技術が先行していた。産業革命ですら、その初期には科学からの寄与にはほとんど頼らなかったと見られている。実際18世紀後半のジェームズ・ワットによる蒸気機関の改良とその大規模な実用化のころまでは、技術が先行し、理論はあと追いしていた。ようやく19世紀中期になって、先行する技術的発展に熱力学理論が追いついたのである」
1824年 サディ・カルノー「火の動力についての考察」





緊急PS.

吉本隆明氏の訃報に接し、謹んで哀惜の意を表します。

聞き忘れたことが、あまりにも多すぎる。2012/03/16/午後4時6分