この発言は先日の菅首相の「脱原発依存」記者会見時のもの。「脱-原発」ではなく「脱-原発依存」としているのも微妙だが、それにしては「原発のない社会」とか御題を飛び越えてしまう「個人的発言」ばかりが目立った。
で、「原子力は律することができない技術」という発言は、トルコ、ベトナムなど日本の原発技術を導入しようとしている国、契約を終えている国々に不安を与え、信用を揺るがすものと野党から批判されるところとなっている。輸出産業としての原発の問題だ。
原発輸出産業というビジネスであるかぎり、それを菅政権としても率先して推進して来たのだから、当然の批判である。
この人の言葉使いは意図的だとすれば犯罪的だが、概念の内包と外延がまぜこちゃになっている。
だから各論で突っ込まれると総論に逃げ、総論で突っ込まれると各論でごまかすということがしょっちゅう起きる。この発言一つとっても、まず「原子力」は「原発」を含むかもしれないか、発電だけではない。はっきり「原発は」と言うべきだろう。
それから、何かと言えば「3月11日」を持ち出し、ダシにしているとしか思えないことがある。煙幕に使っている節がある。
「原発の耐性」の問題と、「放射能漏れ」の問題は、起きた災害としては時間的には連続しているが、しかしその対処と今後の政策の方針は切り離していかないと、論理的な整合性は取れなくなる。
「原発と放射能漏洩」、「自動車と排ガス」、「生肉とO157」・・・。
右側はどれも人体に影響を与える可能性を持つが、左側への対策は全く違って来る。
特に影響を受けることへの恐怖の度合い、不安の性質、被害の生じる頻度や重大度、治療・治癒の可能性など、まったく異なるが、その異なり方は、左側への反応・対応の仕方に比例していない。
クルマの排気ガス問題が話題になった時期も、「反-自動車」や「脱-自動車」が世論になったことはない。排ガスどころか、交通事故によって死傷者が出ることがあっても、脱-自動車とは言わない。他の例も似たようなことが言えるはず。
放射能汚染を理由に、避難を強いられ、生活と仕事の場から追放されるに近い事態に追いやられている避難民の方たちの心情に「原発さえなければ」という気持ちがあるのは当然だ。
しかし大災害・過酷事故に見舞われた「福島原発」と、幸いそのような「災害・事故に見舞われていない原発」、そして原発全体の今後とエネルギー政策とは、いったん切り離すことが必要なはず。そして、それをやれるものこそが政治なのではないのか。
その意味で、菅首相は政治家ではない。政治家でさえない、と言うべきか。
PS.
「生まれて来た子に罪はない」
が基本。
その上で、覚悟の判断をする。
それが政治だと思う。
「邪魔者は消せ!」という脊髄反射に走るのなら、
政治は不要だ。