清志郎が生きてたら歌ったんじゃないかと思いながら 即興で書いてみました。
そんなもん、そんなもん、
気にしてられえっかあ
見えないもん、感じないもん
気にしてられえっかあ
そんなことのために
生まれて来たんじゃねえ
そんなもんのために
生まれてきたんじゃねえ
そんなもん、そんなもん、
食っちまおうぜえ Alright!
さて「反原発」という言葉には(脱原発も同じく)、
現段階で、いったいどういう中味があるんだろうか?
「反放射能」ならわかる。
もっと言えば反「人工放射能」。
漏れ出てしまったものはしょうがない。
なんとかしていくしかない。漏出は止めなければ。当然だ。
その漏出の大元に「反」と言って、
今現在何か意味があるのか?
漏洩して飛散する放射能、放射線に対処することと、
原発の存在自体とは、実践上、もはやつながっていない。
F1の収束は、東電、東電関連会社の復旧班の人々が命懸けで行ってくれている。多くの人は手出しができる、手伝える領域を越えてしまっている。
ここを見間違えると、
いま力を投入しなければならないものを見間違えてしまう。
CO2ワル玉論の温暖化対策で言うなら、CO2排出を削減し、
地球を守る最速の方法は、ヒトが地上からいなくなること
という話があるように、論理的には「反原発」も、そこにいきつきかねない。
戦争から生まれた放射線防護学(保健物理)などは、どこまで信頼できるのかわからないが、
それこそ「気で治すガン」とか、オカルチックかもしれないものまで含め、すべてを総動員してみる、そういう気構えが必要だ。
そういう臨床的な気構えや知恵は、「反原発」からは決して出てこない。
PS.
喉元過ぎればの、一過性のものにしないための前哨戦。こういうイシューはシングルカットでは無理。アルバム、それも楽章のある交響楽のようなものにしないと。
気にしてられっか、だから「いつもの」モンキー・ビジネスに戻ろう、ではないので。むしろそういう気にしないとは真逆なので。
次は「文明」の歌を書くことに。テーマは「世界戦争と20万年の放射能」。タイトルは仮題。企画・構成を進行中です。
