「気持ち」の区切りと、「手続き」上の区切り | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

14日のNHKニュースウォッチ9でも取り上げられていたが、3月11日から3ヶ月を経て、いまだに行方が分からない方々の遺族に対して、「死亡届」の簡素化が行われる。


通常の失踪などの場合は、一年ほどかかるところを、残された親族のために3ヶ月目で認めることにするというものらしい。


「ばっぱ」と幼い兄弟に呼ばれ、早くに亡くなられた両親に代わって育ての親となった二人の祖母にあたる女性も、大津波に呑まれて、未だに行方が分からない。

二人の里親になることを決めた叔母にあたる女性、つまり「ばっぱ」の娘さんは「死亡届」を出すことを決めた。


しかし「気持ち」の区切り目は、やって来ない。


死に化粧をしてあげるまでは、やはり区切りはつかないだろうと思う。


いまだ行方不明者は7000人以上。いくつもの葛藤が生まれていくはずだ。


人は、気持ちに区切りをつけなければ、立ち直れない。動き出せない。


区切りがつかないところを、忙しく立ち働いたりすることで、そのあいだだけ区切りのつかない気持ちをしばし忘れて、息を継いでいくだけだ。


この区切りは、「復旧」や「復興」とは、まったく相容れない。


工程表や線表に、線引きできるようなものではない。


そして、この「線を引く」ことによって、「線を引く」ことこそが、仕事でありビジネスであり、成長であり、経済であるという時代に、われわれは生きてきた。


これからも、きっとそうなのだろう。


いや、ひょっとすると、この区切り目の付けがたさのなかに、


ひょっとすると新しい文明の芽が芽吹いているかもしれないとも思う。


少なくとも、区切らなくても、気持ちの区切り目は、時が自ずと育み、そうやって息を継いでいけた時代も、あったはずなのだ。


もし、3月11日以降に芽生える文明のようなものがあるとすれば、


気持ちが手続きに勝り、その手続きが実現しようとすることを、気持ちがそのまま担えるような、そういうものになっていくだろう、と想いたい。


それはおそらくたとえば「カネの切れ目が縁の切れ目」という、諺が成り立っていった時を見据え直して、


その前後を、大きくまたぎ越えていくような力業を必要とするような事なのかも知れない。


ただ、今は死に化粧の前に、手続き上の区切りをつけようとする、そのためらいと決断とも言えない決断の現実に、静かに寄り添っているしかない。


そこに生まれる忘却は、本当はあってはならない忘却であると思いつつ、そのように忘れがたさを忘れさせようとするある力に、ひれ伏してみるしかないのだ。



編集機関EditorialEngineのシンプルマップ的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks-NHKニュース7_0614


PS.


日本人は、今でも誰かに贈答品を差し出すとき、


「ほんの気持ちですが」と


言葉を添えることがある。