放射性物質量、放射線量の「測定」に意味なし。――第2階 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

(距離的にも時間的にも命懸けの作業を行っている方達に必要な線量計測器の話ではない)


20キロ圏内を、まだ離れない人々がいる。


そのことは、その人々にとって恥ずべきことではまったくないし、哀れむべきことでもない。


いわんや政府の「指示」に従わない無法者であるわけでもまったくない。


なぜなら、わたしたちヒトは、「生命」であるより前に、生き物であって小さな群れをなす動物だからだ。


単に抽象的・理念的な「生命」「個人」個体として存在するわけではない。


生き物は、「場所」とともにある。生きることは「場所」と同時である。


その場所が完全に失われたとき、生き物も同時に失われたと言っていい。生き物と場所は切り離すことができない。


その場所が失われていない以上、そこに住み続けようとするのは生きる者にとって当然のことだ。


恥ずべきことなど、あるはずがないのだ。


もし今、あえてそういうことを言わなければならないとすれば、恥ずべきは、より強制力ある「政令」や避難「命令」ではなく、責任の所在を曖昧にする「指示」を選んだ政府である。政府は30キロ圏に出した「自主避難」によってその素性を露わにした。指示とも言えない曖昧な指示によって「責任逃れ」という本心を明確にした。


さらに、いまだに避難区域を示す図が「同心円」のままなのはなぜか。あれは広島・長崎への核爆弾投下による破壊力の影響範囲・程度を示す、爆心地を中心とする同心円にそっくりだ。


いまの事態とかろうじて比較できるのは、広島・長崎での「二次被爆」だが、いま現在の放射線量とは比べものにならない大量の線量を被曝し、比較にならない高濃度の放射性物質のたまった水たまりの水を口に入れている。


核爆弾による被害と原発災害による被害の大きさを比較したいわけではなく、注意して見るべきなのは、広島・長崎で放射能を浴びた人々は、その地で生き続けてきたということだ。


まずは、そこが「生活の場所」、「生きる」場所であったから。


放射性物質量、放射線量の「測定」に意味なし。――第1階