『ハーバードの「世界を動かす授業」』、複合読書シリーズ第4回です。
ブログテーマは「クラウド読書」でもいいのですが、本のテーマが経済政治社会ものなので、高橋是清日記です。
今日の併せ読みの相手は井上義朗著『市場経済学の源流』。この新書、かれこれ15年ほど前、リクルートのワークデザイン研究所が出していた「Resumex」という雑誌の編集チームで編集企画を担当させてもらっていたころ、どっぷりはまりかけました。おかげで、企画が遅れ気味になったことを覚えています。
どこにどっぷりいったかというと、ケインズの師匠筋にあたるマーシャルの時代の「会社」とケインズの時代の「株式会社」の違いでした。
マーシャルの時代の「企業家」たちは、株式による資金調達を、忌み嫌っていたという点です。
途中、はしょりますが、株式公開に抵抗する姿勢は、マーシャルがいう「経済騎士道」を支えることになった。
「プライベート・カンパニー」の意味と実体も、今日とはずいぶん異なります。同族経営と言えば、良くない印象が今では強いですが、19世紀末から20世紀初頭までは、そうではない、「起業家精神」につながるものがあったことが『源流』を読むと理解できます。
これは後に、シュンペーターが定義した、「企業者」による「新結合」つまりイノベーションを起こす条件であったということを読み取ることができます。
「外部からの衝撃によって動かされた経済の変化ではなく」、「自分自身に委ねられた経済に起こる変化」、これを担うのが、イノベーションだったわけです。
『ハーバードの「世界を動かす授業」』は、「外部からの衝撃」によって動かされる変化をどう読むかという点で優れたケーススタディの方法を垣間見せてくれますが、経済騎士道や、シュンペーターがいう意味での「革新」は、「もはやない」ということを、暗に示す結果になっているとも言えます。
「世渡り」の技術、と言っていいかもしれません。もちろん、この技術も必要です。
経済「外」要因としての、革新が、経済を動かしたケース、はないのか?
「外界からの情報に変化がない間は、変わる理由がない」新古典派の時代に舞い戻っているのではないかという、錯覚をつい覚えてしまうのです。
この併せ読みでは、「外界からの情報」というところに、メラビアンの法則をかませようとしているのですが、まだちょっと無理があるようです(笑)。
ともあれ、自発的で能動的な行動の変化によって経済自ら変容・変化していくという、20世紀的人間像は、幻だったのか?
この疑問をたずさえて、2冊の複合読書を、しばらく続けます。
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