本、そこに雑誌や新聞を含めてもいいのだけれど、
本をめぐる気持ちには、少なくとも3つある。
「読みたい」
「持っていたい」
「使いたい」
「持っていたい」というのは、まあ「置いておきたい」でもいい。積んであっても棚に入っていても、机の上に置いてあっても。
何が言いたいのか、ずばり言っておくと、「持っていたい」「置いておきたい」という気持ちは、本のディスプレイ性、「展示」性に結びついている。
紙の本には天地があって、表紙だけでなく背表紙がある。これ、とっても重要。
展示性とはこのことで、特に目的もなく本棚に目をやって、何かがひらめくということはある。
これが本屋さんになると、もっと凄い。向こうから「目に飛び込んで来る」ということが起きる。
これはフラットなネットショップでは、期待できない。動くバナーとかも、全然成功していない。
七色7本の色鉛筆が、そろってディスプレイされていると虹のように美しい(笑)
どれか1本を選べと言われてもためらってしまう。ある1色が必要で目的買いに来たのでないかぎり。
このためらいと選択の時間に、何が起きているのか。
これを、つかんでおく必要がある。
1冊からたくさんへ、たくさんのなかから1冊へ。
この往還のなかに潜んでいるものをつかんでおく必要がある。
結論から言うなら、「たくさん」がないと「1冊」にも到達できないことがあるということ。
読書は背表紙からすでに始まっているということ。
3つ目の「使う」というのは、1冊から新しい編集が起動する、ということに近い。
新聞や雑誌なら、スクラップするのは、その編集の一つのスタートだし、
本なら、マーキングしたり、何冊も広げて重ね読みしながら、メモっていくという作業は編集以外の何者でもない。
もうこのあたりからお気づきの方もいらっしゃるかも知れないが、本を置いておく、使う、というのは「書く」こと、ライティングマシーンが起動することでもある。
「読み書きの循環論」まで射程に入れておかないと、電子出版は成長しないような気がする。
まあ、そのうちKindle for Proffesionalなんていうバージョンも登場するかもしれませんが(笑)
いや、誰にだって編集は動いている。ということは、仕事柄、って話ではないはずだ。
ともあれ、リアル、電子、両方の意味で「ディスプレイ」、重要です。