わたしたちのカラダの細胞が、毎日入れ替わっているというのはよく知られた事実です。
あたりまえにしている呼吸はもちろん、皮膚も呼吸してますから、自己と外界は常に浸透しあっています。
自分と自分以外のものの境界は、実はあまりはっきりしていなくて、ボケていると言っていいくらいです。
これはあくまでも想像で、ひょっとすると妄想かもしれないですし(爆)、なんにせよ仮説に過ぎませんが、縄文人くらいまでは、自分とか、自己とか、そういう意識あまりなかったんじゃないでしょうか?
「我に返る」ような我は、確定されたものではなく、ふとした瞬間に「自分らしきもの」が見えたり、感じられたりしたということなんじゃないかと想像しています。
ふと、自分らしきものが感じられたと思うのも束の間、何かに追いかけられたり、追いかけたり、そうやっていろいろ生きる工夫をしているあいだに、短命な生涯を終えるという、そういうことだったんじゃないでしょうか。
まあ、縄文時代には、すでに集落があって、ドングリとか「栽培」もしていたんじゃないかという研究成果もあるようなので、もうちょっと自己意識めいたものが濃くあったかもしれないですが、それでもせいぜい確か30数年の寿命だったと言います。
火を起こしたりするときも、そのことへの集中はあっても、「この火は俺が起こしたんだ」というのは、なかったんじゃないかと。
川とか、湖とか池とか、のぞき込んで、「自分の」顔が写って見えたときには、ビックリしたんじゃないかと(爆)
そういう自他未分の時代に帰りたいとは思いませんが、もう少し緩やかな自己像というか、もう少しゆるゆるの自己の半径みたいなものが、あると思えたほうが、楽ちんかもしれません。
たった一つだけの自己像、本当の自分なんてのを追いかけても、それは土台無理な話ではないかと。
いろいろあって、自分なんだから。
という話が聞けて、楽な自分になれるワークショップに参加できます。
「いろいろな自分」を受けいれたほうが、より自在で、融通無碍になれるような気がします。
