クラカウアーは刺激的!
明日の読書会では、『糸と痕跡』(カルロ・ギンズブルグ)のⅢ-1で論じられている写真、映画論の検証のほか、そこで取り上げられているクラカウアーに話を拡げ、『歴史―永遠のユダヤ人の鏡像』『カリガリからヒットラーまで』をとりあげ、フランクフルト学派のなかでの彼の立ち位置をもう一度整理したいと考えています。
ということで、先週、クラカウアーを読んだんですが、まあ、実になんとも、久々に刺激的で、かつ挑戦的な文章でした(ここで、群馬出身の詩人のことを思い出しました。まあ、挑発的でぐいぐいと読者を引き込む力強さがありました。精神が個性的で力強い分、読者を引きつける。今は小生を含め、皆、常識人でおとなしいな~。その分、社会的な生活者としてはまともだとは思いますが……)。かつて、70年安保の頃には、ほとんどこうした挑発的な文章が巷に溢れていました(吉本隆明は、目の不自由だったり大学に行かずに思想家になった方に対して「○○は目が見えないから」とか「捨てコンがないから」などと平気で活字で表し、またそうした心ないどぎつさが当時の一部の学生に大いに受けていました。ボクの好きな埴谷雄高さんは、決してそんな表現はしませんでしたが)が、まあ、現在、こうした文章にお目に掛かることはまずありません。そういう意味で、内容もそうですが、実に判りやすい文章でした。
クラカウアーはヨーロッパ大陸のドイツの生まれですが、新聞記者だったたため、思考も文章もアメリカ人のような帰納法。フランス人のような演繹法ではないので、実に判りやすいです。