生き残る民衆駅「JR錦糸町駅ビル」と失われた“地の塩の箱”① | 小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」

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JR錦糸町駅の駅ビルが誕生したのは1961から62(昭和36・37)年にかけて。全国30番代目の民衆駅です。
戦後、国鉄(JRの前身)は線路・車両を優先して復興。そのため、多くの駅が仮駅舎のままでの営業を強いられることになりました。そこで、駅舎建設に関して地元の有力者たちの資金を仰ぎ、その代わりに商業施設を駅舎内に設けさせることを許可しよう、というのが民衆駅で、いわば民間活力の導入編。
一般的に出資者は「自治体」のほか、鉄道弘済会などの「国鉄関連会社」。あと足らない分を「銀行」や「地元企業」が出資しました。
いかにも民衆駅らしい民衆駅(質素。派手でなく、消費行動を刺激しない)としては、帯広駅の駅ビルがありましたが、現在は近代的な駅ビルに建て変わってしまっています。
東京で有名なのが秋葉原デパート。ところが、これも近年取り壊され、アトレ秋葉原という駅ビルに変わってしまいました。
現在使用されているJR錦糸町駅の駅ビルは正に、民衆駅。この駅には、「地の塩の箱」という善意の助け合いの箱が設置されていました。この地の塩の箱については、またの機会に紹介いたします。

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-JR錦糸町駅