― 火口を磨く夜 ―
閉店後の厨房。
裸電球の下、俺は一人で鍋を火にかけていた。
昨日の残りのスープ。
一晩置いて表面に膜が張り、冷え切った塊だ。
それをあえて、強火の直火にかける。
「最近、火が弱い皿ばっかりだ。」
ボコボコと底から湧き上がる気泡。
中途半端な温め直しじゃ、本当の味は戻らねえ。
芯まで熱を通し、一度沸騰させなきゃ、命は宿らねえんだ。
掃除の合間、
厚揚げの端をコンロの火で直接炙る。
ジュッ、と音がして
焦げた味噌の香りが厨房に広がった。
小腹が満たされると、
人間ってのは少しだけ優しくなれる。
炙り厚揚げのネギ味噌。
まあ、こういうのが一番うまい。
昼間、クゥーが置いていった小鉢がある。
「これ、明日もっと美味しくなるから!」
そう言って残していった
出汁の残りで作った浅漬けだ。
まだ味が少し尖っている。
でも、今のこの店にはちょうどいい。
コンロの五徳を外して火口を磨く。
煤を拭き取り、
シュンシュンと音を立てて
真っ直ぐな青い炎が伸びるまで。
特に──
指先の冷えたやつほど、
火の場所は知ってるもんだ。
長く火を見てきた手ならな。
誰かに温めてもらうのを待つな。
自分の内側に残っているはずの
その小さな熱を見逃すな。
火吹き竹で炭を熾していると、
昔、親父に
「火の粉が飛ぶから離れてろ」
そう叱られたのを思い出す。
今は俺がその火の番だ。
煤で汚れた手を眺めながら、
自分一人のために淹れた
少し苦い番茶を啜る。
温め直しは、一気に。
弱火でダラダラ温めると、
香りが逃げる。
再沸騰の瞬間に火を止める。
それが、一度眠った味を叩き起こすコツだ。
昔、この店、
煙だらけになった日があった。
火ってのはな、
消えたと思っても
芯で残る。
【今日の注意書き】
・火傷に注意。芯まで熱くならねえと、次の皿は食わせねえぞ。
・火口の掃除忘れ注意。炎は正直だ。
・コンセントの抜き忘れ注意。繋ぎっぱなしじゃ、どこへも行けねえぜ。
バレンタインの熱が冷めた夜。
オンボロ食堂には、ひときれの冷たいケーキが残っていた。
閉店後のオンボロ食堂。
カウンターには、一切れだけ残った豆腐レアチーズケーキ。
3月12日にロクさんが出したそのケーキは、驚くほど白くて、驚くほど冷たかった。
「……ロクさん。これ、やっぱり『お返し』だったんスね」
クゥーが、余った生地をボウルから舐め取りながらポツリと言った。
私の脳裏には、一ヶ月前のあの夜が浮かんでいた。
厨房の温度は今よりずっと高く、ロクさんはまるで作戦を練る将軍のように、温度計を睨みつけていた。
『温度は味方だ。冷ますな』
あの日。
応援弁当を求める客たちの熱気に当てられ、
厨房は確かに戦場だった。
チョコを溶かす熱い湯気。
誰かを想う重たい空気。
なのに、今日出されたのは、火も使わず、ただ冷蔵庫でじっと時を待った豆腐のケーキ。
一ヶ月前の「熱」を知っているからこそ、この「冷たさ」の理由が気にかかる。
「ロクさん。バレンタインの時はあんなに熱量(カロリー)高かったのに、なんでホワイトデーはこんなに……スカしてるんスか?」
クゥーの遠慮のない言葉に、ロクさんが手を止める。
「……数ではない。だが、もらう側には、もらう側の責任がある。何十人もの『熱い想い』を一度に受け取ってみろ。まともに食おうとすれば、こっちの体温まで狂っちまう。だから、数字で割り切って管理するしかなかったんだ」
「え、何その『モテすぎて困る男』のライフハック。怖っ! 想いに中てられないための温度管理……次元が違うわ……」
「……それが、俺なりの礼儀だったんだよ」
少し遠くを見る目をして、ロクさんはそう呟いた。
クゥーがニヤリと笑う。
「……あ、わかった! ロクさん、さてはもらいすぎて『チョコ風呂』とか入ってたんじゃないスか!? 28度とか31度とか、絶妙にぬるま湯みたいな数字。あれ、チョコの湯船に浸かって『今の俺、テンパリングバッチリだわ……』とか浸ってたに違いないッス!」
「……入るわけがないだろう。味を安定させるための数字だと言っている」
「えー、つまんない。俺なんて、今年の自分チョコ、懐に入れて『体温』で温めて、いい感じのドロドロ加減で食ったんスよ? これぞ、モテない男が編み出した**『人肌テンパリング』**!」
「……不衛生だ。あと、ただ溶けてるだけだ、それは」
ロクさんは心底嫌そうな顔をしたが、クゥーは止まらない。
「ひどい! だから今回の豆腐ケーキ、あんなに冷たく作ったんスか。俺のドロドロした体温を、一気に冷やして固めるために!」
ロクさんが少しだけ目を細めて、皿をキュッ、と乾いた音を立てて拭き上げた。
「……そうだ。のぼせた頭には、それくらいが丁度いい」
「甘いものは、急がないほうがうまい。
熱すぎる想いも、一度冷ませば、長く愛せる味になる」
ロクさんの言葉に、クゥーが「……深いんだか、ただの冷え性なんだか」と毒づく。
そのやり取りを聞きながら、私はスプーンを入れた。
スプーンを入れると、静かに崩れて、春みたいに柔らかかった。
冷たいケーキを、最後の一口まで味わった。
「……ま、とにかく。ロクさんの冷たい豆腐ケーキのおかげで、俺ののぼせた頭も、一ヶ月前のバレンタインの熱狂も、ようやくいい感じに落ち着いた気がするっス」
「……そうか。それなら、ようやく『次』へ行けるな」
ロクさんが指差した先には、一冊の古いノートがあった。
そこには、あの日の後に記された
『昭和ロールケーキ』
の文字が、懐かしい筆致で残っている。
かつて一度は通り過ぎたはずのその場所から、私たちの時間は、また新しく刻まれ始めるのだ。
「よし! 熱すぎず、冷たすぎず。……これからはオンボロ食堂らしい『適温』で突っ走るっスよ、ロクさん!」
「……お前はまず、その人肌で溶けたチョコを拭いてこい」
夜の風が、開いた扉からそっと入り込み、店内の熱をさらっていく。
34皿目、「お返しの温度」。
それは、一ヶ月をかけてようやく届いた答え合わせ。
表の暖簾が仕舞われ、オンボロ食堂の夜が、静かにほどけていく。



