米不足とは聞いていた。
ネットでいつも購入していたので楽天をみたら、ほんとに米不足だということを実感した。
(まあ、そういっても、西のコメはあるが、南の知られていない米はまだある)
スーパーめぐりをしていないので、ひょっとするとスーパーには普通にあるのかもだが、
この米不足、この先、繰り返しもっとくるのではと思う。
天候もだが、それより農家の担い手不足による米不足が、より現実味がある。
日本の食料自給率が低いことは二十年前にテレビで知った。
今はどれくらいだろう。
輸入にたよる私達は、何かで輸入が途絶えたら…。
最近の犯罪を見ていて思うのは、手早く金がほしい犯行が多い気がする。
犯罪だけでなく、就職先を選ぶ基準や、ファイアにみられる早期退職を目指す動きからも、
今の若者は、早く金を手に入れる、もっと金を、楽に早く。かと思う。
農家を仕事に選ぶ若者が多いとも思えない。
現在農家をされている方は、ほとんど高齢者と聞いた。
危機感を敏感に感じ取る若者が、なんとかせねばと、もがいているのが現状かと思う。
養老 孟司さんの本、”ものがわかるということ”祥伝社、に
”人間の種を蒔いて、ちゃんと世話をして育てる。育つまで「手入れ」をする。稲とキュウリと同じで、それで当たり前です。そういう社会では、子育てと仕事の間に原理的な矛盾がないわけです。”
”「ああすれば、こうなる」でなく、あくまで「手入れ」です。”
という文があった。
自分なりに解釈すれば、
都会というのは合理性の社会で、”「ああすれば、こうなる」”社会で、子供のようにああしたからどうなる、
、つまり不合理な存在は、
都会に子供は、あわない存在となる。
つまり都会が少子化、というのは当たり前のこと。
農家、米を残せない私世代には、
米、農業全般は手間がかかるもの、”「手入れがいる」”というもの。
という意識が、ある。
今は、どうなるかわからない、シュミレーションがきかない”手入れ”が、
受け入れられない世になってきたのかもしれない。
”ああすれば、こうなる”、合理的な都会には、
シュミレーションのきかない、子育ても、米作りも、あわない。
私も予測不可能なものに向かう勇気はない。
だからか、子供がいない人生だった。
再び養老 孟司さんの本から、
”知るとは、自分が変わることだと言いました。どうかわるかのシュミレーションなんてできるはずがありません。だから、「ああすれば、こうなる」が前提の都会では知ることが難しくなるのです。”
都会の人は、沢山のことを知っているように、思っていると思う。
田舎の中では恵まれた環境で育ち受験をへて都会にきたもの(私もだが)
など、一見すると、物知りのようだけど、実は何も本当のことは知らないのかも。
知ってるはずなのに、何かおかしい、子育てに悩み、人間関係になやみ。
前にしているものは、稲と同じで、予測不可能なものということに気づいてないだけかも。
米を手入れをいくらしても、自然災害でそれが無になることもある。
それと同じで、いくら手をいれ、丁寧に子育てをしても、違った結果になっていく。
人間関係でも、裏切られたり、自分を理解してくれないと憤ったり。
おかしい、おかしい。
おかしくはない、だって、本当はわかってないから。
養老さんは、本当にわかるとはということで、”共鳴”をキーワードにあげている。
米不足らしいが、また秋になれば米はでてくるだろうと、ぼんやり私は思っている。
だって毎年そうだったから。
でも本当にこの先、予想の通りに、米が供給されるのか。
”もちろん「手入れ」は、簡単なことではありません。「努力・辛抱・根性」が必要です。”
都会に住むということは、便利だし、予測が可能なものが多く、それはストレスが少ない、
はずだが、なぜ私達は、これほどストレスなのか。
養老 孟司の”ものがわかるとうこと”なかなか奥深い本でした。
都会に住み、感覚をなくし、本来は「手入れ」がいるということを忘れ、
言葉に頼り言葉を信じ。シュミレーションを信じ。
日本中が都会化していく中で、
米だけでなく、いろんなことを、感覚を、この先なくすのかもと、
少し怖いです。