この後歩いたところをご案内



平安時代の御所は

いまの御所よりすこしだけ西にありました


先日坂本龍馬を暗殺した人たちの供述をたどり

四条河原町の近江屋跡地から

智恵光院出水の松林寺まで歩きましたが

その土地は平安京の建春門跡地であり

桃山時代の聚楽第跡地でもありました


この門を左手に見ると

西向きに立つことになります





松林寺から西の見通しはこんなかんじ



なんということのない住宅地ですが

このあたり一帯は内裏(だいり)といわれる

天皇の居住空間でした

↑この写真の左手に

水色の車が停められていて

その奥にブロック塀があります

ブロック塀のとなりが



ここです


一応ご参考に






内侍所(ないしどころ)跡地です

内侍所には

三種の神器を奉安した賢所がありました

『源氏物語』で「内侍」といえば

源内侍(げんのないし)を思い出します


60近い婆さんながら色好みで

ただのゲーム感覚で若き(10代後半)の

源氏と頭中将がふたりして源内侍をくどき

ともにモノにし(?)

源氏と内侍が共寝をしているときに

頭中将が嫉妬に狂ったふりをして乱入

大騒ぎをして婆さんうろたえる、という

一幕が紅葉賀(もみじのが)にあります


なんかこの話は残酷に思えて

昔から好きになれない

これは笑うところなのか

笑うとしたら何を笑うのか

老醜は常に古典文学では笑いの対象とされる


若くいつづけるための装備

(毛染、医療、栄養、眼鏡類、入れ歯、

補聴器、かつら、化粧品など)に乏しい時代

しかもさして筋肉も鍛えない生活様式で

60までオプションなしに生きていると

それはそれはすごたらしい容姿になっていたと

思われます


藤原俊成や藤原彰子なんか90まで生きていたけど

どんなんだったでしょうね


ともあれ

60で色好み

そのエネルギーはすごいものがあります

それで現役に内侍してるんだから

相当のキャリアウーマンですけどね


内侍所のななめ道向かいはこちら



なんの変哲もない町家ですが



梨壺跡地です

10世紀、村上帝の勅命により編纂された

『後撰和歌集』(ごせんわかしゅう)は

この地にあった

「梨壺」と呼ばれた殿舎をオフィスにし

5人のインテリたち

大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)

源順(みなもとのしたごう)

紀友文(きのともふみ)

坂上望城(さかのうえのもちき)

清原元輔(きよはらのもとすけ)

がつどい編纂にあたりました


こうして名前を見ると

まだ古代氏族の名が宮廷の中心に

残っていたんだなと思いますね

清原元輔は『枕草子』をのこした

清少納言のおとうさんです



ここらへんにいたのねえ〜

ちなみに天皇の命令で編纂される和歌集を

勅撰和歌集といいまして

これはぜんぶで8冊あります


古今和歌集

後撰和歌集

拾遺和歌集

後拾遺和歌集

金葉和歌集

詞花和歌集

千載和歌集

新古今和歌集


これらを総称して八代集といいます


最後の新古今和歌集を編纂するのは藤原定家で

編纂を命じたのは後鳥羽院


いまアニメ『平家物語』にでてくる

安徳天皇の腹違いの弟にあたる人です

『鎌倉殿の13人』では尾上松也が

後鳥羽院を演じるようです


常に鎌倉を意識して

してやられて

キイイイイイーっ!!

てなる役なので松也さんすごくよさそうです

顔の癖がうまく活きそう


そういう後鳥羽院に振り回される

藤原定家の日常については






もうこれが名著です

名著すぎます

大好きな本です




ここですこしルートそれます

内侍所の西にある角を南に少し行きますと



綾綺殿(りょうきでん)跡地です

妓女の控室的役割の殿舎だったみたいです

いまは山中油店が経営するレストランに

なっていますが

あいにくまんぼうのためか休業中でした



もとに戻ります

さきほどの松林寺から内侍所跡地につづいた路地を

さらに少しゆくと



今風にカスタマイズされた町家です



承香殿(そきょうでん、じょうきょうでん)

と書かれています

ここも山中油店の持ち物で

ゲストハウスとして運営されています




↑これです。

わたしいっかいここに泊まりたいんですよね

でも市内に暮らしててここにわざわざ泊まるの

なかなかタイミング掴めないですね





紀貫之らによってここで古今集が

編纂されたらしいです


つづきます