パッションフルーツでグリーンカーテン -18ページ目

パッションフルーツでグリーンカーテン

パッションフルーツをメインに
珍しいツル性野菜の栽培にもチャレンジ。
夏には涼しげなグリーンカーテンがお目見え?

先日の臨地研修の続きです。





この道標をあとにして登って行くと、大きな岩があらわれました。



なぜ脚立を掛けて登っているかと申しますと、



この大岩の上にいくつもの石塔が建っているのです。





上ノ台馬頭観音と呼ばれていて、馬頭観音、牛頭観音、将軍地蔵、大日如来が鎮座。
不思議な光景です。


道を戻り、舗装道路を下り横道に入りました。
そしてまた登山。



また平らな場所に着きました。









ここは浄光院小杉寺跡。
大椙山椙福寺の別当です。
現在、麓の高照寺に安置されている十一面観音像は、いったん椙福寺よりこの寺に移されたました。



この広場には手水鉢が残されています。
この手水鉢の左奥にも小高い丘があり、



やはり平坦な場所です。
観音堂跡ではないかと.....。
また、その平坦地から少し2~3mほど下にも、この高台を囲むように作られた平らな場所がありました。
ここは大椙山中腹(標高およそ150m)、地形を上手に利用してます。


舗装道路に戻って再び下山。
麓に到着。



この橋の手前、右に入り、またまた小高い丘を登ります。



石塔があらわれました。







まさに山岳信仰の証拠。
もともと農耕民族である日本人は山を崇拝してきました。
各地に見られますよね。

じつはこの石塔の傍に、





馬頭観音がありました。
瀬渡戸馬道観音です。



しかも、その馬頭観音から下の舗装道路へと続く石で挟んだ道。
まるで参道のような.....。



文化11(1814)年との銘。
十一代将軍家斉の時代です。

八代将軍吉宗がおこなった嶺岡牧の再興着手は、享保の改革のひとつでありました。
牧再興を実現させたのが家斉です。

ちなみに1814年は戌年。
この年の出来事を調べてみたら「滝沢馬琴が南総里見八犬伝を著す」との記事。
これまた偶然ですか?


やっと麓です。
県道89号(鴨川富山線)を東へとゆっくり歩き、横道へ。



目印は浄水場の看板。
この奥こんもりとした小高い山があります。



ここは牧士である川名家の墓地がある場所(通称・墓場山)です。







ここも広くはありませんが平坦な場所で、さらに下方にいくつかの小さな平坦があります。



このあたりの墓標が牧士当時のものとのこと。


県道に戻ってさらに東へ。



この地域を大蛇のようにくねくねと流れる平久里川沿い。



川辺馬道観音があります。



嘉永7(1854)年の銘。
十三代将軍家定の時代、ペリー来航の年です。



こんな場所に馬頭観音があるなんて不思議に思いますが、当時とは地形も違うでしょうし、河川工事も行われているでしょう。
ここに座している意味があるはず。

これで研修は終了しました。



嶺岡西一牧の臨地研修を大まかにご紹介しました。

かぐやの感想。
・大椙山全体がまるで牧の様子。
・牛馬への愛情が深い。
・大椙山にある寺院や牧士に関わる場所がまるで城郭

実際、いわゆる第一線を退いた武士が住む場所は寺院の場合が多く、しかも地域の要所です。
牧士も帯刀を許されていた身分。
しかも川名家は里見氏との関わりが深い。
牧士であるとともに見張り役だった可能性があります。
大椙山は牧であるとともに山全体が城の様相だったのでは.....。

鴨川市のサテライト上方にある、その名も山の城は正木氏の城。
山中には城郭跡や牧の石積も残っています。

嶺岡は多くの山と谷が多い為、一見、戦の場合も馬飼育も不利な条件に思えますが、じつは理にかなった場所だったのではないかと。
しかも、現代まで遺跡が残っているのは嶺岡牧だけ。
こんなにも昔の状況を教えてくれる場所はほかにありません。
今に生きる私達が伝えていかねばならないと改めて思いました。

鹿毛










お知らせします。

2月より土日祝日の営業時間を一時間延長致します。

下記のとおりです。

◆ 平日    9:00 ~ 16:00

◆ 土日祝日  9:00 ~ 17:00


お土産はもちろん、夕食のメニューに足りないものがあった場合、この一時間延長は貴重ですね。

皆様のご来店をお待ちしております。

(^_^)/ sss








先日、嶺岡西一牧の臨地研修があり、頑張って参加してきました。
西一牧は嶺岡牧の西端、南房総市(平群地区)にあります。
だいたいコスモクラシックというゴルフ場の裏側に当ります。

この西一牧は小高い山や丘が点在していて、この地形を上手に利用して野馬土手や馬捕場を作っていたようです。

しかも、その牧内に大きな寺院跡があり、他の牧とは違う様式です。


まず、山の麓にある高照寺にお邪魔しました。



高照寺ホームページによると、1489年頃、川名家(牧士)初代が発願・開創、永禄年間(1558~1569年)頃、里見家兵法指南役の川名藤七郎により建立された曹洞宗寺院です。
ご本尊は地蔵菩薩。
安房國百八個所地蔵の二十九番札所地蔵です。






じつはこの境内の隅(向かって左側)には、大杉観音(安房國観音巡礼十五番札所)があります。



こちらに安置されている十一面観世音菩薩は、大椙山山頂にあった椙福寺(廃寺)の観音堂におられたもの。
高照寺ホームページによると、大椙山中腹にある浄光院小杉寺(廃寺)に、さらに大正七(1918)年午年高照寺へと移されました。

その椙福寺のあった大椙山山頂を目指しての登山です。

急な坂道を登って行く途中に馬頭観音がいくつもありました。
嶺岡牧への道なのだと痛感。


やがて大椙山に入り、先日の雪が残る中を登って行くと、大きな石(岩)が転がる広場に到着。
これが石切場です。



坂状になった石切場で、高い位置から見た画像です。
大きな石自体がまるで牧の石積のように低い位置へとつながっています。
これも他の石切場とは違う状況です。

この石切場の北面は絶壁。



画像では分かりにくいでしょうが、上方に大きな一枚岩があります。



通称、はね岩と呼びます。

石切場としては広すぎるので、おそらく馬を連れて行く途中の広場でもあったのでは.....と。
だって、この山、急斜面ですから。
馬を休憩させてあげないと。


はね岩を目指して登る前に、石切場の横にある水呑場を観察。



こちらにも大きな石(岩)があり、南側が真っ直ぐにカットされています。



その石の下の平らな部分には、四角く彫られた跡があります。
これが水呑場です。



ちなみに、見学している人達の後ろは崖です。

馬捕場へとつれて行く馬がここで休息をとるために、この水が必要だったわけです。
嶺岡山系は幾つもの山と谷があり、この山々に降った雨を吸収。
よって谷に行けば常に湧き出る水に困らず、嵐の時は森の中に身を隠してしのぐ。
大昔(縄文時代でも)から放牧されていた野馬は過ごしてこれたのだと思います。


石切場に戻り、さらに登山。
急な山道で、けっこうきつい.....。
やがて明るくなり、空が見えたところが「はね岩」です。



なぜ「はね岩」と呼ぶのかは不明だとか。
ただ一言申しておきます。
石切場で説明したとおり、このはね岩の下は断崖絶壁です。
この辺りから大きな石を切り落としたのではないかと思われます。

ちなみに、お天気が良ければ、遠くに東京湾・大島を見ることができるそうです。
東京湾を望めるのは西一牧だけ。
これも他の牧とは違うところ。


はね岩を後にしてさらに山中を登ります。
すると土手があらわれ、(木々は生えていますが、)広~い平らな場所に到着。
その木々の中をさらに進んで行くと石積の檀があらわれました。



これが椙福寺観音堂跡です。
北斜面の山を切り、その西端にあるのがこの観音堂跡。
土手のある東から観音堂のある西まで、横幅ゆうに100mはあるかと思われます。
奥行きは不明.....。
ちなみに北斜面の上方、大椙山山頂は標高320mです。

石段を上がると、右に手水鉢、左に奉納石、そして十一面観音菩薩が鎮座。





この十一面観音菩薩は昭和13年に建てられたもので、高照寺に移された観音像の代わりです。



奉納石には嘉永6(1853)年との銘が。
これは丑年です。
この年は黒船来航の年に当たります。
江戸末期ですね。

そういえば、高照寺に観音像が移されたのは午年。
高照寺では、午年丑年に観音様の御開帳があるとか。
これらの丑年午年は偶然でしょうか.....。



この急な山に登り、牛馬の安産を祈って石を奉納するしきたりがありました。

鴨川市の元名地区の上方、馬の背にある大きな石の大日様。
牝牛が産まれると、山を登って御礼に行っていたと聞きました。

嶺岡山付近の住民にとって牛馬は家族同様だったのです。


椙福寺を後にして石切場を通過。
土手沿いを歩いて下山。



旧馬捕場があらわれました。
イノシシ除けの柵があるのが土手。
その土手沿いに石積。
その石積の内側(低い位置)が旧馬捕場。

この土手の石積の中で、唯一発見されたもの、



矢穴石跡がある閃緑岩の木っ端石。
江戸時代前期のものらしい。


山を出て舗装道路を歩き、村境に来ました。



そこには二重の土を盛った野馬土手がありました。
(画像では不明瞭ですが.....。)

さらに下って行くと、



道路脇に石像がありました。





道標のようです。
どうやら「大山まで一里」と標されているようです。
つまり、この地区は鴨川市の大山地区の裏にあるという証拠です。


今日はここまで。
続きは後日。

鹿毛