1. 「いぶき」打ち上げの背景にあるものは?
2009年1月23日、世界初の温室効果ガス観測衛星「いぶき」(GOSAT)が種子島宇宙センターから打ち上げられました。二酸化炭素(CO2)
とメタンの大気中濃度を宇宙から観測する衛星は、私たちになにを教えてくれるのでしょう。独立行政法人国立環境研究所においてGOSATプロジェクトを主
導する横田達也さんにうかがいました。
京都議定書発効を受け、現在、先進国を中心に、温室効果ガス削減に向けた取り組みが進められています。京都議定書に定められたいくつかの温室効果ガスのう
ち、特にCO2による温室効果は全体の6割強を占めています。CO2排出削減=低炭素社会の実現が大きな意
味を持つ理由もそこにあります。
ところで地球温暖化に関心を持つ方の多くは、「気候変動予測モデル」という言葉を聞いたことがあるはずです。これはCO2排
出量と気候変動の関係の予測に使われるもので、「2050年までに50%のCO2を削減する」という2008年の洞爺湖サミットで
の同意も、このようなモデルが参考にされています。
CO2濃度は、植物の光合成などにより、夏に減り、冬に増える傾向があります。より正確な気候変動予測モデルをつくる
には、このような地球上におけるCO2のふるまいの原因の把握が不可欠です。
そのため現在、世界各国の研究者により「地球の呼吸」ともいえる、CO2濃度変化のメカニズムを知るための取り組みが
進められています。その成果としては、たとえば地球上を64分割し、それぞれの吸収・排出量分布が「全球CO2吸収・排出量分布」
として表現されています。
しかし「科学的に見て、その精度は決して高いわけではない」と横田さんはいいます。最大の理由は、CO2濃度を測定す
る基地局の配置の偏りにあります。現在、CO2濃度を測定する基地局は全世界に184局ありますが、その大部分は、欧州・北米・日
本に偏っているのが現実なのです。
そのため全球の吸収・排出量分布を算出するには、アフリカや南米、シベリアなどのデータ空白部のCO2濃度を推測で補
うことになります。その結果、精度という点で問題が残ってしまうわけです。
2. CO2吸収・排出メカニズムの謎
図1 地球全球の月別CO2吸収・排出量分布。地球規模でのCO2の吸収・排出の仕組
みを把握する取り組みが進められているが、「いぶき」によりその精度が高まることが期待されている。
「実はモデルによるCO2吸収・排出量分布を細かく見ていくと、『おかしい』と感じる部分も少なくないんです」とい
いつつ横田さんが示したのは、国立環境研究所が作成したCO2吸収・排出量分布図です。(図1)
マップ上の青がCO2が吸収されているエリア、赤およびオレンジが排出されているエリア、緑が吸収・排出量の小さな
エリアです。北半球を見ると、アジアや北米の森林地帯を中心に、冬に排出され、夏に吸収されている様子がよくわかります。
「しかし南米アマゾン川流域に目を移すと、ジャングルのはずなのに夏も冬も排出されています。ちょっと不思議ですよね」。
実は、これは研究者の間でも意見の分かれるところです。そもそも熱帯雨林は分解と吸収によるトータルとしてのCO2吸
収作用が弱いため、この推測が正しいというのが一方の意見。現在、こうした考え方が主流ですが、その一方で、推測自体が間違っているという意見も根強くあ
ります。
「こうした論争は、推測に頼らざるをえない現状を反映したものです。実はモデルによるCO2吸収・排出量分布を細か
く見ていくと、このような疑問点は少なくないんですよ」。
このように、わからない部分が多いCO2のふるまいに関する科学的知見を高めることが「いぶき」の第一の使命です。
また、今もなおCO2をはじめとした温室効果ガスと地球温暖化の関係について、科学者の見解は完全に一致していません。「いぶき」
の観測データにより、そうした論争に客観的な情報が加えられ、進展することも期待されています。
3. 100万分の4のオーダーで変化を観測
太陽からのエネルギーは、光として地面に到着して地表を暖めますが、その熱は赤外線として地球外に放出されます。一方、温室効果ガスには赤外線を吸収する
性質があるため、ガスが増えるほど吸収される熱も増え、地球の温度は上がっていきます。これが地球温暖化の基本的な仕組みです。
しかし温室効果ガスの濃度は、その中でもっとも濃度が高いCO2でもわずか100万分の380(380ppm)ほど
と、驚くほど低いのが現実です。また年間の変動幅や地域間の差は、最大でも8~20ppmほど。たった数%程度の変動幅しかありません。これより高い精度
が実現できなくては、CO2濃度の変化は観測できないのです。
その実現が大きな課題だったと横田さんはいいます。「いぶき」に先行した、欧州の温室効果ガス観測衛星プロジェクトCARBOSATが頓挫した背景にもこ
うした事情がありました。
「欧州のプロジェクトでは、1ppmという精度をめざしていました。一方、『いぶき』がめざしたのは、4ppm=1%が計測できる精度。決して満足できる
ものではありませんが、それが実現できれば南北差や海陸差、あるいは季節的な変化が見えてきます。世界の温室効果ガス観測衛星計画が足踏みするなか、日本
の研究者グループは1%の精度でも第一歩として大きな意味を持つと考え、計画が始められました」。
現在、地上局では0.1~0.5ppmという精度でのCO2濃度観測が実現していますが、各局のセンサの状態により、
同じ濃度の空気を測ったときに測定値にバラツキが出ないように時間と労力をかけて目盛りあわせをする努力が常に必要です。一方、衛星による観測は、同一の
センサで地球上をくまなく観測できるという特長があります。
「絶対的な数値を測る上ではたしかに地上局に劣りますが、われわれが今もっとも知りたいと思っている相対的な変化を全球レベルで見るには、衛星による観測
は大きなメリットがあるのです」。
実は「いぶき」には、姉妹機といえる衛星が存在するはずでした。それが今年2月に打ち上げに失敗した、米国の温室効果ガス観測衛星「OCO」です。
「OCO開発チームとは打ち上げ後もデータ比較などの共同作業を進める予定でした。両機のCO2濃度算出結果が合致すれば自信につ
ながりますし、合わなければ計算方法等の改善もできたはずです。それだけに打ち上げ失敗はとても残念です」。
4. 温室効果ガスを観測する仕組み
図4 「いぶき」に搭載されたセンサーは、酸素、CO2、メタンの吸収作用がはっきりと現れる短波長赤外線3
バンドと、熱赤外線1バントで大気の様子を観測する。各種気体により赤外線が吸収されることで、このようなギザギザが生まれる。
「いぶき」は地上666kmを飛行し、約100分で地球を一周します。周回しながら3日間で地球をくまなく観測していきますが、その測定数は5万6000
ポイントに及びます(図2・図3)。濃度を計算できるのは雲のない晴天域の観測点だけですが、それでもかなりの数になります。
よく知られるように、光はプリズムにより7色に分光されます。同様に赤外線も分光可能で、「いぶき」が搭載する温室効果ガス観測センサは、地表から反射す
る赤外線を細かく分光してキャッチします(図4)。
図を見ると、特定の帯域がギザギザになっていることがわかるはずです。ギザギザの谷の部分は、温室効果ガスなどにより赤外線が吸収された証しです。「いぶ
き」プロジェクトでは、この谷の形や深さをもとに温室効果ガス濃度を計算していきます。
「いぶき」プロジェクトは、環境省、国立環境研究所、JAXA(宇宙航空研究機構)の共同事業として進められていますが、国立環境研究所は、観測データか
ら温室効果ガス濃度を計算するなどの定常的なデータ処理を担当しています。
精度向上と並ぶ技術上の課題のひとつが、膨大なデータを処理するシステムの構築でした。「いぶき」プロジェクトでは、国立環境研究所に設置したシステムの
ほかに東京大学情報基盤センターのスーパーコンピュータを使い、その解析を行います。
5. 「いぶき」により見えてくる目標削減量
図5 今後いぶきプロジェクトでは、各種地上観測施設や航空機による測定データと照合しながらデータの校正・検証作業が続けられる。
「いぶき」は2月7日に初めて観測データを地上に送信しました。
「受信したデータは、打ち上げに先立ってわれわれがシミュレーションしたものとほぼ合致していました。この先の計画成功への第一ハードルをクリアしたと考
えていいと思います」。
今後、衛星軌道の微調整、センサ性能のチェックなどの期間を経て、4月末からは校正・検証段階が始まります。これは「いぶき」から送られるデータがどれだ
け正確なものか、さらに観測データからどれだけ正確にCO
2等の濃度を算出出来るかを地上局などの観測データと照合しながら検討し
ていくプロセスです(図5)。作業は世界各国の研究者や研究機関と協力して行われます。校正・検証段階を終える10月からは、「いぶき」のデータをCO
2吸
収・排出量分布推定に反映しようとする研究者などにデータの提供を開始し、そこで問題がないことを確認した上で、来年1月からはデータを広く一般の方々に
公開していく予定です。
では、それによりなにが見えてくるのでしょう。CO
2吸収・排出量分布の精度向上につながるのはもちろんですが、「い
ぶき」には、その先にもうひとつの重要な期待のもてる成果があります。
それは、「気候変動予測モデル」の精度を向上させることです。実は、「CO
2排出50%削減」という洞爺湖サミットで
の合意も、CO
2のふるまいが完全に解明できていないため、科学的根拠が十分とは言えないのが実情なのです。
「今後、数年の間に、『いぶき』のデータを活用した研究結果が、世界のいくつかの研究機関による気候変動予測モデルに反映されることを期待しています。そ
れにより、地球温暖化を防ぐために必要な削減量もより正確に見えてくるのでは」と横田さんはいいます。
「削減目標にすべきなのは50%なのか、あるいは80%なのか――。今後、人類が取り組まざるを得ないこの課題の解答に少しでも役立つような科学的裏づけ
を与えることが、『いぶき』に与えられたもっとも大きな使命かもしれません」。