【大学情報収集】2東北大学とは | エコノミライ研究所のブログ

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2015年2月16日に設立した任意団体です。
ありとあらゆる「ミライ」について考える団体ですが、主に
「E」lectric「V」iecle(電気自動車)を通じて
1、生活の未来
2、文化の未来
3、社会の未来
を探求して行きます。

国内最高学府である大学

 

全国各所に大学がありますけれども

 

何処に、どのような内容を探求する学部・学科が存在するのか

 

分からないことだらけです。

 




そこで

 

偶然目についた学校からのクローズアップですが紹介していきます。

 

第2回目は東北大学です。

 

 

 
 
東北大学(とうほくだいがく、英語: Tohoku University)は、宮城県仙台市青葉区片平二丁目1番1号に本部を置く日本の国立大学。1907年創立、1907年大学設置。大学の略称は特になく、東北大と呼ばれる。仙台では「とんぺー」という愛称で呼ばれている。

概観
全体
国内で3番目の帝国大学として1907年(明治40年)に創設され、仙台においては1911年(明治44年)に開学した東北帝国大学理科大学を源流とする大学である。

東北大学の創立年次は時代によって見解が異なっており、創立25周年記念式典の際は東北帝国大学理科大学の開設年である1911年(明治44年)を創立年次と位置付けていたが、現在は東北帝国大学の設立の勅令(第236号)が『官報』に掲載された1907年(明治40年)6月22日を創立記念日と位置付けている。

東北帝国大学創立期の大学の文書記号は、東京帝国大学のそれが「東大」であったため「北大」とされた。後に東北帝国大学から分立した北海道帝国大学は「海大」とされた。ただし、現在では「北大」は北海道大学の略称として用いられることが多く、東北大学の略称は「東北大」が用いられる。2017年6月、指定国立大学法人に指定される。

2023年9月、文部科学省は、「国際卓越研究大学」認定に向けた候補に東北大学を選定した。

理念
東北大学では、「研究第一」「門戸開放」「実学尊重」の3つを大学理念としている。

研究第一
「研究第一」の標語は、初代総長・澤柳政太郎が本学最初の入学宣誓式で、次のように述べたことに由来する。「大学は無論学術の研究を主とするものなるが故に、学術の研究に重きを置くは大学としての特色にして各国の大学皆然らざるなし。」「我東北大学はこの点に於いては何れの大学にも退けを取らざる覚悟なり。」第2代総長を務めた北條時敬もまた、大学教授の必須要件は研究者として第一流であること、と述べた。このような本学草創期における東北大学の理念を「研究第一」主義という用語に収斂させたのが、第6代総長で世界的研究者でもあった本多光太郎である。世界第一流の研究こそが東北大学の最も重要なミッションであり、本学の教育も含めた活動の基盤であるという理念は、第二次世界大戦後も歴代総長と本学構成員によって脈々と受け継がれ、今日まで本学の最も重要な伝統として息づいている。
また、東北大学が「研究第一」を標榜した理由としては、先行した東京帝国大学が「官僚養成」を、京都帝国大学が「学問」を標榜したことから、第三の帝大である東北帝国大学は「研究」を標榜したものと考えられる。こうした「研究第一」主義の現れとして、全国の国立大学附置研究所の中で最も古い歴史を有する附置研究所の一つである金属材料研究所(設置当時の研究所名は臨時理化学研究所第2部)を擁すること、第二次世界大戦時には附置研究所の数が10を数えた時期があること等が挙げられる。なお、1998年(平成10年)-2008年(平成20年)の論文の被引用数では日本国内で第4位(世界第64位)、2005年度の主要研究経費は約260億円で、日本国内で第2位となっている。

門戸開放
東北帝国大学理科大学創設当初、既設の帝国大学が旧制高等学校出身者にのみ入学を認め、東北帝国大学農科大学が札幌農学校予修科の流れを汲む同農科大学予科出身者からの受け入れを主体としていたのに対して、理科大学は旧制高等学校、大学予科以外の教育機関出身者にも入学を認めた(傍系入学)。また、1913年(大正2年)には3人の女性(黒田チカ、丹下ウメ、牧田らく)に対して入学を許可した。これは帝国大学としては初めての女性に対する入学許可であり、入学許可が官報に掲載された8月21日は女子大生の日となっている。さらに、日本における外国人留学生の博士号取得第一号(陈建功)と第二号(苏步青)を輩出するなど、東北帝国大学時代より外国人留学生が数多く本学で学んできた。このような経緯のもとに、現在では「門戸開放」のフレーズは、「学生・教員・職員を問わず真に実力のある者はそのバックグラウンドにかかわらず受け入れる」という東北大学の方針を一言で表すための標語となっている。また、男女雇用機会均等法の改正を受け、杜の都女性科学者ハードリング支援事業やサイエンスエンジェル制度も導入されている。2014年には、男女共同参画社会を目指す活発な取組の一助となるよう、澤柳政太郎記念東北大学男女共同参画賞(通称:澤柳記念賞)が創設された。現在の学部学生は、東北地方以外の出身者が過半数を占めており、旧帝国大学の中では地元以外からの入学者比率が高い方である。

実学尊重
東北大学では創設以来、社会で実用される研究が奨励されてきたことに加え、大学での研究に端を発した企業が複数設立されてきたなど、実学が大変重視されている。その伝統は、2007年(平成19年)の大学別特許公開件数で日本国内1位であるところにも現れており、これは、自然科学のみならず、人文科学および社会科学の学問分野においても根付いている。
 
評価
QS世界大学ランキング2024(2023年)では第113位、アジア第24位、日本国内第5位である。また、英タイムズ紙系の教育専門誌『タイムズ・ハイアー・エデュケーション』によるTHE世界大学ランキング2023-2024(2023年度)では、同点第130位、アジア第20位、日本国内第3位である。THE世界大学ランキング日本版2023では総合第1位であり、4年連続の首位となった。

(中略)

創立以前
1736年(元文元年) 仙台藩が藩校として養賢堂を設置。
1760年(宝暦10年) 養賢堂で医学教育が開始される。
1817年(文化14年) 養賢堂から仙台藩医学校を分離。
1822年(文政5年) 仙台藩は仙台藩学校蘭科を開設し、日本初の西洋医学講座を実施。
1869年(明治2年) 仙台藩医学校を施薬所と改称。
1872年(明治5年) 東京府・芝の増上寺内に開拓使仮学校設置。仙台県が宮城県へと改称されたのに伴い、施薬所を母体に宮城県立医学所となる。同年中に宮城県立医学所は廃止され、共立病院附属学舎へと改組。
1873年(明治6年) 共立病院附属学舎は共立義塾と改称ののちに解散、1872年に設立されていた共立病院附属塾舎と統合。
1875年(明治8年) 北海道石狩国札幌郡札幌に開拓使仮学校札幌学校が発足する。
1876年(明治9年) 開拓使仮学校札幌学校を札幌農学校と改称。7月にクラーク博士が教頭就任。8月14日札幌農学校開校式挙行。
1878年(明治11年) 札幌農学校演武場(現在の札幌市時計台)が竣工。
1879年(明治12年) 共立病院は同年中に仙台公立病院、宮城病院と順次改称、共立病院附属塾舎は最終的に宮城病院附属医学校へ改組
1880年(明治13年) 宮城病院附属医学校を宮城医学校と改称(1881年に元の名称に戻るも1882年に再度宮城医学校となる)
1887年(明治20年) 宮城医学校を母体に第二高等中学校医学部を設置。
1886年(明治19年) 札幌農学校植物園が竣工。
1894年(明治27年) 第二高等中学校は学制改革に伴い第二高等学校へ改組。佐藤昌介が札幌農学校校長に就任する。
1901年(明治34年) 第二高等学校医学部を母体に仙台医学専門学校を設置。
1907年(明治40年)4月 仙台高等工業学校が新設される。
 
東北帝国大学時代

1907年(明治40年)
6月22日 東北帝国大学設置の勅令が公布される(創立記念日)。
9月 札幌農学校は東北帝国大学農科大学となる。同校校長佐藤昌介は農科大学長となり、1910年末までは総長としての職務も代行した。
1911年(明治44年) 仙台市に本部・理科大学を設置。澤柳政太郎を初代総長として選出。
1912年(明治45年)4月1日 仙台医学専門学校を包摂して東北帝国大学医学専門部、仙台高等工業学校を包摂して東北帝国大学工学専門部とする。
1915年(大正4年) 医学専門部を母体に医科大学を設置。
1918年(大正7年) 農科大学は、分離独立して北海道帝国大学(現在の北海道大学)となる。
1919年(大正8年) 大学令公布に伴い、分科大学制を学部制へ改組。工学部を設置。
1921年(大正10年) 工学専門部が、仙台高等工業学校として分離独立。
1922年(大正11年) 法文学部を設置。
1926年(大正15年) 工学部機械科の建物から出火。同科、電気科の教室など建物800坪が全焼。
1936年(昭和11年) 創立25周年記念式典を開催。
1939年(昭和14年) 臨時附属医学専門部を設置。
1943年(昭和18年) 大学院特別研究生制度実施。

東北大学時代
1947年(昭和22年) 農学部を設置。東北大学へと改称。
1949年(昭和24年) 学制改革に伴い、仙台市所在の官立学校(第二高等学校、仙台工業専門学校、宮城師範学校、宮城青年師範学校)を統合し、宮城県女子専門学校を包括して新制大学へ改組。法文学部を法学部、文学部、経済学部へ改組。教育学部を設置。
1953年(昭和28年) 大学院設置(文学研究科、教育学研究科、法学研究科、経済学研究科、理学研究科、工学研究科、農学研究科)。
1955年(昭和30年) 大学院医学研究科設置。
1957年(昭和32年) 進駐軍・川内キャンプ(旧仙台城二の丸)の跡地を取得し、川内キャンパスとする。
1961年(昭和36年) 大学院薬学研究科設置。
1964年(昭和39年) 教養部設置。
1965年(昭和40年)
歯学部を設置。教育学部の教員養成系統を宮城教育大学として分離。
9月15日 - 朝から法学部、経済学部、教育学部、教養部の学生が授業放棄。午後から理学部、農学部、医学部の学生も同調。大学本部前で4000人規模の学生集会。
1972年(昭和47年) 医学部を改組し、医学部薬学科を分離して薬学部を設置。大学院歯学研究科設置。
1973年(昭和48年) 医学部を改組し、医療技術短期大学部を設置。
1987年(昭和62年) 金属材料研究所を全国共同利用研究所に改組。
1993年(平成5年) 教養部を廃止。大学院国際文化研究科、情報科学研究科設置。
1994年(平成6年) 大学院各研究科の重点化を開始。大学院医学研究科を大学院医学系研究科へ名称変更。
1995年(平成7年) 電気通信研究所を全国共同利用研究所に改組。
2001年(平成13年) 大学院生命科学研究科設置。
2002年(平成14年) 大学院教育情報学教育部・研究部設置。
2003年(平成15年) 大学院環境科学研究科設置。医療技術短期大学部を医学部保健学科へ改組。
2004年(平成16年) 国立大学法人法の規定により国立大学法人へ改組。大学院法学研究科を改組、法科大学院(総合法制専攻)、公共政策大学院(公共法政策専攻)設置。
2005年(平成17年) 大学院経済学研究科を改組、会計大学院(会計専門職専攻)設置。
2006年(平成18年)
薬学部を改組し、創薬科学科(4年制-研究者養成)と薬学科(6年制-薬剤師養成)を設置。
青葉山県有地を宮城県から購入。青葉山新キャンパスとして整備を開始。
2007年(平成19年) 創立100周年。公式ロゴマークおよび公式カラーを制定。
2008年(平成20年)10月 東北大学記念講堂(川内記念講堂)および松下会館を東北大学百周年記念会館(通称「川内萩ホール」)として改修。
2009年(平成21年)4月 日本国内では初となる医工学研究科を設置
2012年(平成24年)1月 東北大学が運営を委託された大学入試センター試験気仙沼会場にて、事前確認の不徹底により、英語リスニング試験に使用するICプレーヤーが200個不足するミスが発生し、到着して試験開始するまで受験生を2時間も待たせた失態が発生。
2015年(平成27年)4月 知財功労賞(経済産業大臣表彰)を受賞。
2017年(平成29年)6月 指定国立大学法人に認可された。
2018年(平成30年)11月 『東北大学ビジョン2030』を発表。
2021年(令和3年)4月 グリーン未来創造機構を設置。

東日本大震災の影響
2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)で女子学生2名と入学予定の女子高校生1名が津波に呑まれ死亡し、卒業生にも多数の死者・行方不明者が出た。また教職員・在校生の大半が被災し、沿岸部に住む者の中には住居を失った者も少なくなかった。各キャンパスも震度6強・6弱の烈震に見舞われ、さらにその後も震度5クラスの強い余震が多発。これにより、大学の各施設や研究設備は過去に例がないほどの甚大な被害を受けた。一部では割れた薬品が反応して火災も発生したが、初期消火で建物全体が燃えることはなかった。
大学当局は復旧に追われ、12日に予定されていた後期試験を中止。大学入試センター試験の点数で合格者を決める異例の措置を採った。さらに卒業式も中止され、入学式・授業開始も5月初旬へ1カ月延期された。5月に行われた入学式は、宮城県内の主要なホールが震災の影響で使用できなかったため、各学科・研究科の建物内でオリエンテーションとして行われた。
被災して著しく損傷した川内キャンパス川内合同研究棟塔屋も2011年(平成23年)7月に取り壊された。
青葉山キャンパスを中心に[38]合計28棟が使用不能となり損失額は440億円に及ぶ見込みとなっている。

2012年(平成24年)4月1日に、総合的な災害研究を目的とした附置研究所である災害科学国際研究所(IRIDeS イリディス)を設置。自然科学系だけでなく、人文科学系・社会科学系の研究者も在籍している。
 
(出典:ウィキペディア東北大学 - Wikipedia

 

日本には様々な分野で様々な学術研究が実施され社会実践へと応用されています。

 

この活動がわが国ニッポンの「ミライ」を支えて続けて戴くことを、切に願います。

 

本日も、素敵な日曜日でありますことを