大日本帝国の艦船_1黎明期0044春風丸/肇敏(しゅんぷうまる/ちょんびん) | エコノミライ研究所のブログ

エコノミライ研究所のブログ

2015年2月16日に設立した任意団体です。
ありとあらゆる「ミライ」について考える団体ですが、主に
「E」lectric「V」iecle(電気自動車)を通じて
1、生活の未来
2、文化の未来
3、社会の未来
を探求して行きます。

ウィキペディアはじめ、様々な文献や記録に残っている、近代国家として歩み始めた「日の本(ひのもと)」が、地球上の人類社会でトップグループを維持するために必要とされた「投資」物件である、戦艦をはじめとする、海上艦艇の歴史を紐解くシリーズを始めさせて戴いています。

 

1945年8月14日をもって無力化された

 

とはいえ、21世紀に入っても、「イージスアショア」計画が頓挫(とんざ)し、再び、イージス艦計画の延長線上に組み込まれることになりそうな現代「日本国」にとっても、参考となる「歴史の勉強」である、と確信いたします。

 

「ミライ」

 

への投資が、<いま>を生きる<ひと>にとって、どのような意味があるのかについて、考える切欠ともなる

 

思索の旅

 

幕末戊辰戦争前後から脈々と受け継がれてきた、「日の本」の海軍戦力に欠かせない、水上艦船についての紹介シリーズであります。

 

今回紹介するフネは、カナダで建造された帆船で新政府が「春風丸」として購入し、後に、練習船「肇敏(ちょうびん)」として運用されるに至る

 

春風丸/肇敏(しゅんぷうまる/ちょうびん)

 

についてです。

 

 

肇敏(ちょうびん、旧仮名でてうびん、てょうびん)は日本海軍の練習艦。

艦名は「事を開き始めてすみやかに行う」という意味。 『詩経』に「肇敏戒公用賜爾祉」とあり、 これから艦名を採ったと思われる。

概要
カナダで建造された木造帆船で、 竣工年等は不明。 明治4年(1871年)に日本海軍が購入して春風丸(しゅんぷうまる)と命名、 運送船として使用された。 1873年(明治6年)に肇敏丸(ちょうびんまる)と改名、 西南戦争では輸送任務を行った。 1877年(明治10年)以降は練習船任務に就き、 1879年(明治12年)に肇敏(艦)と改名した。 1886年(明治19年)廃艦、船体は海兵団などで使用され 1896年(明治29年)11月に売却が認許された。

艦型
3檣バーク型の帆船。 要目表の値は主に公文書(『記録材料・海軍省報告書第一』 など)による。 その他の文献での要目は以下の通り。

『日本近世造船史 明治時代』:排水量885英トン、またはトン数885トン、長さ137 ft (41.76 m)、幅29 ft (8.84 m)
『日本海軍艦船名考』:排水量885英トン、長さ137尺(38.49m)、幅29尺(8.79m)
『日本海軍史 第7巻』:排水量885トン、長さ42.8m、幅9.1m
艦歴
明治4年
元ロシア(またはプロシア)帆船ユトラーで、 明治4年6月27日(1871年8月13日)にイギリス人(ヘーア)から購入し春風丸(しゅんぷうまる)と命名した。 『海軍省報告書』によると6月27日(1871年8月13日)に英国バルク船ユドラー号をベーア氏から購入し春風丸と改称した、とする。

7月9日(新暦8月24日)に暴風に襲われたが、春風丸に被害は無かった。

7月18日(新暦9月2日)石炭輸送の為に唐津への回航が命令された。 11月10日(新暦12月21日)再び唐津への回航命令が出され、 11月18日(新暦12月29日)出港した。

明治5年
明治5年1月25日(1872年3月4日)、春風丸に対し唐津から兵庫への石炭輸送と同時に、鹿児島からの火薬輸送も命ぜられた。

1873年
1873年(明治6年)2月2日、大坂丸、春風丸は軍務局所管から提督府所管となったが、 3月13日に軍務局に戻された。

1873年(明治6年)に御召小舟が宮内省から海軍省へ移管、船名は無かったが 明治天皇の意向で5月2日春風丸と命名された。 そのために同日、運送船春風丸は肇敏丸に改名された。

10月2日に肇敏丸は暴風に遭い損傷、11月以降長崎製作所で修理を行った。 11月4日、肇敏丸は会計局の所轄となった。 翌1874年(明治7年)1月9日に修理は完了した。

1874年
1874年(明治7年)5月、修理の申し出が有り 5月31日肇敏丸は石川島へ曳航された。 当時の石川島は工事が輻輳しており、修理完了は9月以降になった。

1875年
1875年(明治8年) 2月3日、肇敏丸は練習船と定められ提督府所轄となった。

10月28日、日本周辺を東部と西部に分け、東部指揮官は中牟田倉之助少将、西部指揮官は伊東祐麿少将が任命され、 日進、春日、浅間、第二丁卯、孟春、千代田形、肇敏丸、快風丸は西部指揮官所轄となった。

1876年-1877年
1876年(明治9年) 2月20日、練習船から輸送船と変更された。

熊本県下に陸軍省の物品を輸送することになり、 肇敏丸は10月24日熊本に到着した。 島原では熊本の鎮台で火事が起きたなどのデマがあり、肇敏丸は同地に回航した。 11月に鹿児島に回航したが、損傷箇所があり鹿児島造船所で修理を行った。 その帰路には坐礁した雲揚の大砲などを運搬することになった。 1877年(明治10年)1月17日午前に神戸港を出港し、 18日午後に那智勝浦に到着した。 2月3日、機器の搭載を終わり、雲揚乗員も便乗し午前8時30分に加田村(現紀北町長島加田)を出港、下田港を経由し、 2月13日午前11時50分に横浜港に到着した。 2月16日に横須賀ヘ回航、 同地で雲揚の機械類を揚陸した。 肇敏丸は同地で修理を行い、3月17日完成した。

西南戦争
1877年(明治10年)の西南戦争では輸送任務に従事した。

3月後半、肇敏丸は鹿児島造船所の地金などを輸送するために回航することになり、 4月15日横浜港を出港した。 なお『恩給叙勲年加算調査』では4月16日に出港(出地不明)としている。 肇敏丸は5月6日午前に長崎を出港、5月10日午後4時に鹿児島に投錨した。 肇敏丸は鹿児島を8月17日午前1時に出港、8月28日(または8月20日)午後8時に品海に到着した。 9月11日横須賀に回航、搭載物件を揚陸した。 ここでコレラの疑いのある乗員が出て、9月24日に肇敏丸は横浜港に回航、 10月14日改めて横須賀に入港した。

練習船
1877年(明治10年)9月25日に東海鎮守府所轄の運送船肇敏丸は練習船に指定された。

1878年(明治11年)1月17日、当分間兵学校所轄の練習船に指定され、 1月22日に東海鎮守府から海軍兵学校に引き渡され、 1月23日午後1時に横須賀を出港し 品海に回航、2月3日海軍省内堀に到着した。

修理
ただ練習船とするにはマストを3本とも交換するなどの大規模な修理が必要とされ、 修理着手から完成までは4カ月が見積もられた。 肇敏丸は3月19日から横須賀造船所で修理に着手、 また6月21日に修復艦と指定された。 なお4月11日、肇敏丸用の板葺き小屋2棟を陸上に建築することになり、 10月に端艇5隻を搭載することになった。

練習艦
1879年(明治12年) 中は修理を続けた。 7月4日(または7月7日)肇敏丸(造船所修復船)を肇敏(艦)と改称した。 1880年(明治13年)1月22日(または1月21日)五等艦に定められた。 9月17日に肇敏乗員は東海鎮守府所轄とされた。

航海練習艦
1882年(明治15年)2月24日、肇敏は航海練習艦に指定され、 4月27日、艦位を四等に改められ、 定員も改正された。

水兵募集航海
水兵募集のために、6月25日品海を出港、7月20日佐賀関に到着した。 佐賀関を9月11日出港、9月18日長崎港に入港した 10月3日から11月30日まで長崎工作分局で修理を行った。 12月19日長崎港を出港し、12月27日品海に帰着した。

1883年(明治16年) 2月9日から6月20日まで横須賀造船所で修理。

9月22日に品川を出港し、午後館山湾に到着した。 9月26日同所発、28日清水着。 10月13日清水発、浦賀や品川などを航行し、11月13日館山湾に到着した。 11月18日館山湾発、同日浦賀に帰港した。

廃艦
「艦体が腐朽し軍艦の用に堪え難」くなり、 1886年(明治19年)3月15日に廃艦にされた (除籍)。 その後、船体は浦賀屯営の付属とされた。 1889年(明治22年)5月13日には航海運用術練習艦筑波の付属、 1890年(明治23年)1月8日に武蔵の付属、同年8月27日に横須賀海兵団付属とされた。

1896年(明治29年)11月5日に旧肇敏売却の上申があり、 19日認許された。

艦長
春風丸船長
植田吉蔵:明治4年7月(1871年8月から9月) -
肇敏丸船長
上田吉造:1873年10月時
(心得)上田吉蔵(雇):1876年3月15日 -
艦長
※『日本海軍史』第9巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

伊月一郎 少佐:不詳 - 1884年1月21日
三浦功 少佐:1884年1月21日 - 12月16日
木藤貞良 少佐:1885年6月1日 - 1886年2月2日
 
<基本情報>
建造所    (カナダ)
運用者     大日本帝国海軍(兵部省)
艦種    運送船 → 練習船(練習艦)
艦歴
就役    明治4年6月27日(1871年8月13日)購入
除籍    1886年3月15日廃艦
その後    1896年11月19日売却認許
改名    ユトラー(ユドーラ)
→ 春風丸
→ 肇敏丸/肇敏艦
要目
排水量    650英トン
トン数    1871年:446トン
1878年:470トン
長さ    21間1寸余り(38.21m強)
全身長:137尺(41.52m)
幅    4間1尺(7.58m)
または 29尺7(9.00m)
吃水    1878年:前部1丈5尺(4.55m)、後部1丈6尺(4.85m)
帆装    3檣バーク型
乗員    明治4年(1871年):30名
1883年8月定員:124名、練習員約80名
兵装    砲 4門
1874年:無し
搭載艇    1878年10月-:30ft大艇1隻、27ftホエールボート1隻、24ftギグ2隻、14ftディンギー1隻
その他    船材:木(松材)
甲板1層
 

<出典:ウィキペディア「肇敏」肇敏 (練習艦) - Wikipedia

 

紹介は以上です。このような感じで、次回も続けます。

 

次回もお楽しみに。

 

エコノミライ研究所

所長 楊田芳樹

 

このシリーズ

【新シリーズ】大日本帝国の艦船_ー0001シリーズを始めるに当たって 2021-02-22 07:00:00

 

【新シリーズ】大日本帝国の艦船_0000艦艇一覧 2021-03-01 07:00:00

 

前のシリーズ

湯郷温泉てつどう模型館&レトロおもちゃ館に展示されていた世界の艦船から1米英 2020-12-14 07:00:00

 

大日本帝国海軍艦艇一覧(だいにっぽんていこくかいぐんかんていいちらん)は、明治維新から太平洋戦争(大東亜戦争第二次世界大戦)終結の間に、大日本帝国海軍が保有または、保有を計画した艦艇の一覧である。現段階で、この一覧は全艦艇の網羅には程遠いものである。

(中略)

なお、艦種類別及び等級については、基本的に竣工時とする。終戦までに廃止された類別についてはその限りではない。また特記すべき変更がある場合はより重要と思われる類別に分類し、航空母艦への改造など変更前後の両方とも重要な場合は両方に分類する。日本海軍の艦種類別の変遷大日本帝国海軍艦艇要目解説については、別稿で記述する。未成艦・計画艦は艦名を斜体で表記する。」

(出典:ウィキペディア「大日本帝国海軍艦艇一覧」大日本帝国海軍艦艇一覧 - Wikipedia

 

このような記述を元に、歴史的に古いフネから、艦種ごとに紹介するスタイルにて始めさせて戴いています。

 

紹介する流れは、以下の通りです。

 

☆今回☆1    黎明期
1.1    軍艦
1.2    運輸船
1.3    その他
2    艦艇
2.1    軍艦
2.1.1    戦艦
2.1.1.1    一等戦艦
2.1.1.2    二等戦艦
2.1.1.3    等級廃止後
2.1.2    巡洋戦艦
2.1.3    航空母艦
2.1.4    巡洋艦
2.1.4.1    等級制定以前(スループ)
2.1.4.2    等級制定以前(コルベット)
2.1.4.3    等級制定以前(巡洋艦)
2.1.4.4    等級制定以前(戦利巡洋艦)
2.1.4.5    等級制定以前(装甲巡洋艦)
2.1.4.6    等級制定以前(防護巡洋艦)
2.1.4.7    一等巡洋艦(装甲巡洋艦)
2.1.4.8    一等巡洋艦(重巡洋艦)
2.1.4.9    二等巡洋艦(防護巡洋艦)
2.1.4.10    二等巡洋艦(軽巡洋艦)
2.1.4.11    三等巡洋艦(防護巡洋艦)
2.1.5    水上機母艦
2.1.6    水雷母艦
2.1.7    潜水母艦
2.1.8    水雷砲艦
2.1.9    通報艦
2.1.10    敷設艦
2.1.10.1    急設網艦
2.1.11    練習戦艦
2.1.12    練習巡洋艦
2.2    駆逐艦
2.2.1    等級制定以前
2.2.2    一等駆逐艦
2.2.3    二等駆逐艦
2.3    潜水艦
2.3.1    一等潜水艦
2.3.1.1    海大型潜水艦
2.3.1.2    巡潜型潜水艦
2.3.1.3    その他の一等潜水艦
2.3.2    二等潜水艦
2.3.3    三等潜水艦
2.3.4    第一次世界大戦戦利潜水艦
2.3.5    特殊潜航艇・特攻兵器
2.3.6    実験艦・計画艦
2.4    砲艦
2.4.1    河用砲艦
2.5    海防艦
2.5.1    旧定義艦
2.5.1.1    一等海防艦
2.5.1.2    二等海防艦
2.5.1.3    三等海防艦
2.5.1.4    等級廃止後
2.5.2    新定義艦
2.6    輸送艦
2.6.1    一等輸送艦
2.6.2    二等輸送艦
2.7    水雷艇
2.7.1    一等水雷艇
2.7.2    二等水雷艇
2.7.3    三等水雷艇
2.7.4    日清戦争戦利艇
2.7.5    昭和期の水雷艇
2.8    掃海艇
2.9    駆潜艇
2.10    敷設艇
2.10.1    二等敷設艇
2.10.2    三等敷設艇
2.11    哨戒艇
3    特務艦艇
3.1    特務艦
3.1.1    工作艦
3.1.2    運送艦
3.1.2.1    給油艦
3.1.2.2    給炭艦
3.1.2.3    給炭油艦
3.1.2.4    給兵艦
3.1.2.5    給糧艦
3.1.3    砕氷艦
3.1.4    測量艦
3.1.5    標的艦
3.1.6    練習特務艦
3.2    特務艇
3.2.1    掃海特務艇
3.2.2    駆潜特務艇
3.2.3    敷設特務艇
3.2.4    哨戒特務艇
3.2.5    海防艇
3.2.6    電纜敷設艇
3.2.7    潜水艦母艇
3.2.8    魚雷艇
3.2.8.1    試作魚雷艇
3.2.8.2    輸入魚雷艇
3.2.8.3    T-1型
3.2.8.4    甲型魚雷艇
3.2.8.5    乙型魚雷艇
3.2.8.6    隼艇
3.2.8.7    太平洋戦争戦利魚雷艇
4    特設艦艇
4.1    特設軍艦
4.1.1    特設航空母艦
4.1.2    特設水上機母艦
4.1.3    特設航空機運搬艦
4.1.4    特設巡洋艦
4.1.5    特設敷設艦
4.1.6    特設急設網艦
4.1.7    特設潜水母艦
4.1.8    特設水雷母艦
4.1.9    特設掃海母艦
4.1.10    特設砲艦
4.1.10.1    砲艦兼砕氷艦
4.1.10.2    砲艦大
4.1.10.3    砲艦小
4.1.10.4    砲艦兼敷設艦
4.2    特設特務艇
4.2.1    特設捕獲網艇
4.2.2    特設防潜網艇
4.2.3    特設敷設艇
4.2.4    特設駆潜艇
4.2.5    特設掃海艇
4.2.6    特設監視艇
4.2.7    特設工作艦
4.2.8    特設港務艦
4.2.9    特設測量艦
4.2.10    特設電纜敷設船
4.2.11    特設病院船
4.2.12    特設救難船
4.2.13    特設運送艦船
4.2.13.1    給兵船
4.2.13.2    給水船
4.2.13.3    給糧船
4.2.13.4    給炭船
4.2.13.5    給炭油船
4.2.13.6    給油船
4.2.13.7    雑用船
5    雑役船
5.1    工作船
5.2    海洋観測船
5.3    交通船
5.4    救難船兼曳船」

(出典:同上)

 

黎明期の軍艦
※明治20年まで、軍艦の正式名には「艦」が付く(和泉丸、河内丸、陽春丸を除く)。例「富士山艦」「摂津艦」など

0007富士山(富士 [I])
0012摂津 [I]
0002和泉丸(和泉 [I])
0004武蔵 [I]
0003河内丸(河内[I])
0020東(←甲鉄)
0013千代田形(千代田 [I])
0021春日 [I](→雑役船)
0010龍驤 [I]
0014第一丁卯
0015第二丁卯
0016乾行
0017孟春
0018雲揚
筑波 [I](→巡洋艦→三等海防艦)
0010浅間 [I]
0008清輝
0019雷電(←蟠竜丸)
0005陽春丸
海軍艦籍に入っているという資料もあるもの

0022延年丸
0023電流丸
運輸船
※初期の運輸船は兵装を持つ戦闘艦艇でもあるのでここに上げる。

0001朝陽丸
0024翔鶴丸(翔鶴 [I])
0009観光丸
0029飛隼丸
0030飛龍丸(飛龍 [I])
0006咸臨丸
0025鳳凰丸
0027立象丸
0030快風丸
0026開運丸
0028長鯨丸(長鯨[I])
0032大坂丸
0033虹橋船
0034行速丸
0035東京丸
0036第一利根川船(→第一利根川丸)(利根 [I])
0037高雄丸(高雄 [I])
0038第二利根川船(→第二利根川丸)(利根 [II])
0040沖鷹丸(冲鷹[I])
0041千早号(千早[I])
0039函容丸
0042樺太丸
0043華陽丸


練習艦
0044肇敏(←春風丸)
石川
館山(←第一回漕丸)

 

(出典:同上)
満珠型:満珠 [I] - 干珠 [I]
日清戦争戦利艦:敏捷


御召艦
迅鯨 [I](外海用御召艦)
蒼龍 [I](内海用御召船、蒼龍丸→蒼龍艦)