5年に1度開催しているパイオニアラン9__参加車両の紹介1 | エコノミライ研究所のブログ

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2015年2月16日に設立した任意団体です。
ありとあらゆる「ミライ」について考える団体ですが、主に
「E」lectric「V」iecle(電気自動車)を通じて
1、生活の未来
2、文化の未来
3、社会の未来
を探求して行きます。

日本で初めて(蒸気)自動車を製作し、旭川沿いをドライブしたのが、山羽虎夫やまばとらお、という岡山県人の偉業を讃えるべく

 

5年に1度のペースで開催されている

 

純国産第1号車 山羽式蒸気自動車115周年記念 1904-2019 パイオニアラン

 

の模様をレポートしています。

 

今回は、その 第 9 回目です。

 

2019(平成31)年4月27日の土曜日、若干肌寒い曇り空の中、実行委員長の片山様による開会宣言により、イベントが開始されました。

 

参加台数は、約30台で、運営関係者などを併せて総勢、50人前後の参加者が集りました。

 

山羽虎夫氏が115年前に走行したコースと同様のルートを

お馴染みSONYアクションカムで撮影した動画からキャプションした写真を中心にレポートしています。

 

戦後の復興を乗り越え、昭和・平成の市町村大合併を経た、人口70万都市「大都会」岡山の中心部を走り、

 

歴史に名高い「旧山陽道」の一角も走行することとなりまして、日本百名橋の一つである「京橋」も渡りました。

 

 

小橋交差点を南方面に右折した先には、旭川沿いに、岡山湾を臨む「新」岡山港までの一本道を走行しました。

 

旧国道2号線、現在の国道250号線「新京橋」や

 

岡山市中区さくら住座と同区桜橋2丁目との境にある桜橋を右手に通過し、

 

国道2号線バイパス旭川大橋と交差するポイントや、

 

十数年ほど前までは有料道路であった、岡南(こうなん)大橋を潜(くぐ)り、

 

別の市道と一旦合流した後、再び、旭川河口方面へと右折し、「新」岡山港方面へと進みまして、

 

岡山県道45号線の児島湾大橋の勇壮な姿が、グングンと、近づいて来、

走行距離、約20km、走行時間、約1時間(一寸、長く掛かってしまいましたね。。。)

 

往路走行、全車、無事、走破しました。

 

前置きが長くなりましたが、今回から、数回に分けて、

 

パイオニアラン2019に参加した車両の紹介を、(楊田の分かる範囲で恐縮ですが)させて戴きます。

ゼッケン1番は勿論、このクルマ

 

三菱500です

 

<概要>

新三菱重工業名古屋製作所で開発され、自動車製造に着手した三菱にとって3番目にあたる。1番目はA型リムジン(フィアット・ゼロのコピー)、2番めはヘンリーJ(カイザー・フレイザーのノックダウン)で、本車が三菱オリジナルの初めての乗用車であった。
1955年に通商産業省が打ち出した国民車構想に対応したもので、虚飾を廃した実用的なリアエンジンモデルだった。スタイリングはドイツのバブルカー、ゴッゴモビル(Goggomobil)の影響を受けている。
<三菱・500(A11型)>
三菱重工業の戦後初の自社製作乗用車として、1960年4月に三菱・500を発売。ボディタイプは2ドアセダン。全長3,140mm、全幅1,390mm、全高1,380mm、ホイールベース2,065mm、車両重量490kgで燃料タンク容量20リットルであった。
エンジンはソレックスキャブレター1個付のNE19型、空冷、直列2気筒OHV、排気量493ccで、最高出力は21PS/5,000rpm、最大トルクは3.4kgm/3,800rpm。3速マニュアルトランスミッションを介した最高速度は90km/hであった。サスペンションは前後ともトレーリングアームとコイルスプリングの組み合わせで、タイヤサイズは5.20-12(インチ)、同年10月に三角窓付きのDXを追加した。
1961年8月には、車名は500のまま、エンジンを25馬力・594ccのNE35A型に変更した、スーパーDXを追加した。ところが市場での人気には至らず、三菱500は短期間で製造中止となった。生産台数は1万3289台
これらは、排気量はもちろんのこと、ボディサイズの面でも、現在では軽自動車の枠内となっている。
三菱・500が発売された当時、この車のイメージキャラクターとしてハナ肇とクレージーキャッツが起用されていた。

(出典:ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/三菱・500

 

 

 

続きまして

 

 

 

ゼッケン2 ダットサン14型ロードスターです。

 

「ダットサンの由来は日産自動車の源流である、橋本増治郎が設立した快進社までさかのぼる。1914年(大正3年)に完成した自動車には、支援者であった田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎のそれぞれの頭文字であるD、A、Tと、逃げるウサギのように非常に速いことのたとえである「脱兎(だっと)のごとく」にかけて、脱兎号(DAT CAR)と名づけられた。
快進社は実用自動車製造と合併し、社名はダット自動車製造となった。1930年(昭和5年)に小型乗用車の試作車が完成し、車名を「DATの息子」の意味のDATSON(ダットソン)とした。DATの定義は、Durable(耐久性がある)、Attractive(魅力的な)、Trustworthy(信頼できる)、に改められた。ただSONが日本語の“損”に聞こえ縁起が悪いということから、1932年(昭和7年)に英語で同音のSUN(太陽)に変え、DATSUN(ダットサン)と、ダットサン商会の吉崎良造が命名。
1931年(昭和6年)に鮎川義介が設立していた戸畑鋳物と合併し、1934年(昭和9年)に社名を日産自動車へ変更、ダットの名は消滅し、ダットサンがブランド名として残された。「ダットサン」はブランドと同時にトレードマーク(商標)でもあり、車名(車検証等に記載)にも使われた。市場によっても使い分けがあり、たとえば日本では「サニー」のペットネームで販売された乗用車も米国市場では「ダットサン」ブランドが付されていた。」

 

<出典>ウィキペディア:https://ja.wikipedia.org/wiki/ダットサン

 

(ダットサン14型ロードスターを説明したページも、検索すればヒットしますが、リンク許可などの手続きが面倒だったので、省略しました。)

 

 

続きまして、ゼッケン3、マツダのR360クーペです。

 

「マツダ・R360クーペは、マツダ(当時は東洋工業)の製造した軽自動車。1960年に発売された。この車で、マツダは4輪乗用車市場に参入した。
戦後の日本車として、初めて「クーペ」を名乗った車である(戦前ではダットサンにクーペモデルが存在した)。
1960年生産・販売開始。
価格は30万円で、当時のスバル360より安く設定された。開発リーダーは、後にロータリーエンジンの実用化に成功し、「ミスター・ロータリー」として知られた技術者の山本健一である。
ドアは2つで4人乗りだが、後部は非常に狭く、子供向けだった。このパッケージングは、このクラスであれば1人か2人での乗車が多く、本格的な4座に拘らず軽量化を優先するために2+2と割り切ったものである。これに限らず軽量化対策は徹底され、アルミニウム合金、マグネシウム合金、プラスチックなどの軽量な素材を多く用いている。
モノコックボディの造形は、既にマツダオート三輪のデザインを手がけた実績のある工業デザイナーの小杉二郎(1915年 - 1981年)と、東洋工業社内デザイナーの手による。
(中略)
エンジンは同社のオート三輪、K360と同様の、排気量356cc、16馬力の強制空冷V型2気筒4ストロークOHVエンジンであるが、鋳鉄メインのK360とは異なり、基本はアルミ合金製であった。しかも動弁機構や補機類にはマグネシウム合金までも多用した軽量設計で、許容回転数は最大5,000rpmを超える、当時としては異例の高回転エンジンであった。その後しばらくの間マツダはアルミエンジンを「白いエンジン」と呼び、セールスポイントの一つとするようになった。このエンジンを車体後部に縦置きし、後輪を駆動するリアエンジン方式を用いる。
(中略)
破格の廉価から発売当初は非常に高い人気を得たが、完全な4座であるスバル360の対抗馬としては、実質2人乗りのR360クーペは不利であった。ゆえに1962年に発表された4ドア(デビュー当初は2ドアのみ)4座軽乗用車である「キャロル」に主力の座を譲ってからは存在が薄くなったものの、1966年まで生産が続けられ、AT車のみ、身体障害者のドライバー向けに1969年まで受注生産された。
発売初年度の販売台数は23,417台、総生産台数は65,737台であった。 」

<出典>ウィキペディア:https://ja.wikipedia.org/wiki/マツダ・R360クーペ

 

 

 

 

 

と、まぁ、このように、参加車両を1台1台紹介しますと、キリがありませんけれども、

 

折角の機会ですので、スマホカメラかアクションカムのいずれかで撮影できていたショットを切り出して、

1台でも多く紹介できればと思っています。

 

 

とても 良い時間 だなぁ

とても 良い場所 だなぁ

とても 良いクルマ達に囲まれている なぁ

 

とても 幸せ だなぁ

 

(キヨウハ、コノアタリデ、ヨカロウカイ)

 

 

パイオニアラン

 

に関するレポートは、次回も続きます。

 

片山様、いつも、お待たせしています。こんな感じで続けていますが、如何でしょうか?

 

漸く、往路の紹介まで遣り遂げました。

 

パイオニアランや、児島ブルージーンズラリーのことを、一人でも多くの方々に注目して頂けるよう、微力を尽くします。

 

次回も、お楽しみに!

 

エコノミライ研究所

所長 楊田芳樹


このシリーズ

5年に1度開催しているパイオニアラン_1予習編

 

 (2020.4.24)


前の記事

5年に1度開催しているパイオニアラン8_往路編4_岡山港エリアで往路ゴール(2020.6.12)


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5年に1度開催しているパイオニアラン10__参加車両の紹介2

 

 (2020.6.26)


 

メインスポンサーの1社である、株式会社ビッグ・ジョン様の製作と思しき、デニム製のイベント横断幕を展開し、
参加者の皆さんで写真に納まりました。

 

<パイオニアランに関する基本情報>

 

片山様が居られたからこそ、日本自動車史でも大変貴重なイベントが、5年に1度、開催されています。

 

1.開催日時:2019年4月27日(土)8:00~15:00
2.走行コース:岡山プラザホテル~江並(往復)
3.会場:岡山プラザホテル
4.参加者:旧き佳き時代の車
5.行事内容:記念走行・展示・撮影会・会食
6.参加登録料 1名:10,000円(税込)(食事・記念品)
7.振込先:(割愛)
8.主催:パイオニアラン2019実行委員会
9.事務局 倉敷市児島小川4丁目3-8レストランワーゲン内
10.主管:三菱500オーナーズクラブ
 
参加するためには、もう一つ、条件がありまして
ジーンズジャケット着用とのことでしたので、
 
地元民でありながら、BIG JOHNブランドのジャケットを持っておりませんでしたので、購入した次第です。
 
このイベント主催者の方からのメッセージも引用させて戴きます。
 
※イベント案内用紙に記されている、かがみ文書より
「明治37年(1904)岡山の繁華街から旧山陽道を経て瀬戸内の渡船場近くまでのコースで、記念すべき国産第1号自動車の処女運転が行われました。
 115年目の今年2019年、その道程を三菱500を先頭に、世界のヒストリックカーでたどってみようと思います。そしてこの記念すべきコース「山羽式記念道路(千日前~江並)」で、山羽虎夫氏の偉業をあらためて讃えたいと思います。岡山の地でこのような素晴らしい偉業が達成されたことを全国の人々に知ってもらえれば、こんなにうれしいことはありません。さあ貴方も走ってみませんか。多くの方々の参加をお待ちしております。」
 
 
<蛇足>

岡山県という地理的環境は、様々な幸運に恵まれています。

 

乗り物関係で申し上げるならば

 

日本で初めて飛行機を製作し、飛ばそうとしたのが、浮田幸吉という、岡山県人でしたし

 

日本で初めて(蒸気)自動車を製作し、旭川沿いをドライブしたのが、山羽虎夫やまばとらお、という岡山県人でした。

 

そして、クルマ好きの方なら、「嗚呼、此処か」と直ぐにご理解頂けるかもしれない、この場所「WAGEN」も、「聖地」の一つ、であるかもしれません。

 

<蛇足のついでに>

新型コロナウィルスの影響で、巣籠り、せざるを得ない状況が続いている影響もありまして、

当研究所からアップロードしたyoutube動画のうち、

材料費ゼロを目指したミニ四駆コース紹介の動画の2本が、それぞれ、2千回程度の再生をして頂くに至り、驚いています。

 

 

再生回数が急激に増えたのは、2月中旬ごろからですので、

お家(うち)でできるDIYが盛んになっていることの表れなのだろう、と推察しています。

 

DIYといえば

 

今年の夏休みに宿題に合わせて、このアイテムのバージョンアップも画策しています。

 

科学実験教材のソーラーパネルの発電能力でも水循環できるか、試して見たいです。