うずちゃん押し問悶答(道)場~♪その日暮らし♪~ -5ページ目

うずちゃん押し問悶答(道)場~♪その日暮らし♪~

うずちゃんの例の部屋の別館です。こっちはダークネスで。

今、日々、私にとって飴玉みたいなご褒美動画がある。

 

それを観るとなんだか、そんなことで喜んでいる私が恥ずかしくなるんだけれども、その動画に出ているパフォーマーとの距離が近くなっているようで、幸せな気持ちになる。

 

何も想像しないで、自分の思ったことを思った表現で届けたものが思いもかけず相手に届く、この幸せ。

 

素の自分が素敵だと思われたような、そんなドキドキ。

 

なんというか、そのパフォーマーにとってはお愛想かもしれないけれども、そのお愛想にすら幸せを覚えている私がちょっとかわいそうな気もしないでもないけれども、その動画を観ていると、私もこうやって表現を届けられることもあるんだなあと思った。

 

自分の考えに誰が共感しようがしまいがそれを気にしないようにしようと頑張っている自分を知っているけれども、結局、好きな人からの共感は砂糖より甘く、毒に耽溺する自分をそこから引きはがしたくなる。

 

人からの共感は思っている以上に甘く、危険だと私にとっては思える。

 

相手の共感に自由度があっての共感こそ価値があるが、得たいと思って得る共感は毒だ。

 

私はそこから自由ではなくなる。

 

その共感を得るために自分を変えることはしたくない。

 

その共感を得るために頑張ろうとしてはいけないと思う。

 

その共感からは距離を持って接したい。

 

けれども、疲れたとき、悲しいとき、そのご褒美動画を観ている間は、私を知らない人からも自分は共感を得ることもできる人間だと思い出せる、そんなひと時だ。

 

最近の不安

 

と言っても、来るべくして来るものであるとは想像していた。

 

このコロナ禍の中にあって、父の衰えが早い。

 

一つの傾向として怒りっぽくなっている。

 

私も急に怒られたりすると、ひどく悲しい気分になり、向けられた怒りを怒りで返してしまうことも多いので、あとで、

 

私が気を付けなくちゃ

 

と思う。

 

年を取ってくると制御が効かなくなる部分が出てくるのは仕方ないのだ。

 

頑固だけれども、穏やかな父が少しずつ年を取って変わってくることへの不安に満たされると、本当にせつない。

 

母のことを介護しながら、父もなんてできるのだろうか?とも不安になる。

 

できなくなったときはその時考えようって、まずは目の前に手中する日々。

 

今が不幸では全然ない。

絶賛、みずがめ座水星逆行の影響を受けているのかどうなのか、よくわからないですが、水星の逆行の影響がたくさん出ています。

 

普段、色々出来事が起きてから、

 

ああ、あれは水星逆行の影響ね

 

と確認するくらいのテンポやヒントで気が付くくらいだったのですが、今回はどうも様子が違うようです。

 

少しくらいは普段だって水星逆行中に起きるようなことなんてあるのですが、このところは毎日、

 

え?そうなの?

 

え?また?

 

みたいなことがずっと起きています。

 

私の生まれたときのアストロチャートっていうのですか?みずがめ座の水星逆行で影響を受けるようなところがないのです。

 

ともかく、意識して、毎日

 

おお!絶賛、水星逆行中だな、おい!

 

ってことが起きているのがなんとも不思議。

 

そんなわけで今回の水星逆行中についてはメモを取るようにしています。

 

今年は水星逆行が起きるのがすべて風の星座(ふたご座、天稟座、みずがめ座)だそうなので、気を付けてみていようと思います。

 

にしても、私にはひとつもみずがめ座から影響を受けるような星がないのにー

 

なんでぢゃろ?

私の目がそういうものばかりを拾うからそう感じているのかもしれない。

 

今、私がとても憧れていたり、素敵だなと思ったり、嫉妬してしまう人はたぶんだけれども、

 

沢山の人に認められなくてもが迷惑かけようとも、自分のやりたいことを一本筋を通して貫いてやってきた人

 

なんぢゃないかと気づいた。

 

何が好きで、何が嫌いで、どうしたいのか

 

を生きていく中ではっきりさせてきた。

 

そういう人なんだと思う。

 

だから、私は私に迷惑をかける人がとっても嫌いだ。

 

そういう人に限って、迷惑をかけても他人から沢山愛されているような人が多かったからだと思う。

 

みんな、最初から分かっている人ばかりではない。

 

だから、好きや嫌いや得意を人生で試して、失敗しては修正していくというのを続けていくのだ。

 

そうやって人生をデザインする。

 

振り返ってみたら、

 

私は何をやるのも下手だし、

コミュニケーションも下手だ。

 

必要以上に繊細だ。

 

扱いにくい。

 

だけれども、人に対して本当に繊細に対応しているかは今では定かではない。

 

わがままだし。

でも、わがままなのをずっと隠してきた。

わがままなのを隠していたのは、わがままはいけない、わがままは愛されない、という風に思い込んでいたからだ。

 

わがままを出して、人の意に添わねば愛されないんだ、と思い込んでいたことだ。

 

なんで、そんな風になったのかは兄弟が多かったことは一理あるけれども、私みたいにならない人だって沢山いる。

 

だから、これも人のせいではない。

 

自分の責任だ。

 

いよいよもって、年を重ねてきて、誰かと結婚したり、付き合ったりということもほぼ私の人生に関係なくなってきて、相手の気を引くために自分を折り曲げて、畳み込んで、しまい込む必要がなくなって、隠していた私が息をすることができるようになった。

 

介護生活に入って、今だ「迷惑kかけるな不義理をするな」という呪縛の中に入るけれども、その呪縛があっても、やるべきことや必要なことをできることだけにやるしかないんだという立場になってとても気が楽になったのかもしれない。

 

例えば、もう誰かと恋人や人生をともにする旦那様という存在と出会うことも、人として愛されることも最低限わかってくれる人がわずかばかりいればいいんだと腑に落ちたときに、きれいに着飾ることも、ダイエットもやめてしまった。

 

もともときれいぢゃないから、他人が不快に思わないように清潔さを保つことはあるけれども、もうそれ以外はそのままでいいぢゃないか。

 

食べたいものを気を付けてダイエットしてみても、ダンスを続けていた時も他人(師匠)からしてみれば、

 

いつまでたっても、〇〇さんは痩せないし、踊りに艶もない。

習った通りに表現してはいるけれども、遊びもないし、余裕も人が心を動かすようななにかもない

 

という評価だった。

 

たぶん、先生が言う通りだったと思う。

 

まぢめに踊るだけだもの。

 

私は踊りを好きなら続ければよかったのに、ある日、自分の外反母趾を見つめて、踊るのが苦痛になった。

 

自分を磨くということさえやめてしまっている今の状況を考えると、あまりいいとは思えない。

 

今の状況で愛されている自分で私はまあまあ満足して、誰かに愛されたいという気持ちが薄れたので、自分のままでいるしかなくなった状況がおクルミとなり、私を温め、楽ちんになったのだ。

 

今愛してくれている人が私をずっと愛するとは限らないけれども、それでもいいかもと思っている自分がいる。

 

今私を愛してくれている人は家族と一握りのお友達たちだけれども、とても居心地がいい。

 

数が増えれば今より幸せかもしれないけれど、それだけの摩擦が起きると、私はどんどんすり減っていく感じがする。

 

私がやることはあまりうまくないから人の迷惑になるし、

(事実としては役に立っていることもあったのにね)

だから、私より上手な人がやればいいから

私は好きとか嫌いとかは後回しにして、残ったものをやればいい。

 

誰もやる人がいないのだから、

多少のまずさや失敗だって、

みんなだって仕方ないと思ってくれる。

 

それでも人の願いにかなわないならば、

私がやめればいい。

 

でも、こういうやり方だと内容は身につかないし、

誰かのために役に立つすべも身につかない。

 

今の私は求められることもなく、介護の生活だけが人の求めがある場所だからいるだけで、そういう役目の人間もいるのだと誰かが言っていたことを助けに生きているのだと思う。

 

あれ?何書こうと思ったのかわからなくなった。

 

また、思い出したら書こう。

 

書こうと思った時に、書けないつらさ。(笑)

先週はなんだか精神的に不安定だった。

 

一週間の間に、すごく良いこととすごく悪いこと(私が意味づけするとすれば、ということだが)があった。

 

母のリピートトークがひどくて、精神的に追い詰められていって、本当に落ち込んだのだけれども、その時に母へ私が投げつけた言葉は(いっても仕方ないのにね)、

 

人に迷惑をかけるな、不義理をするな

と言われ続けてきて、私が世間で生きていけると思うのか!

 

人は生きている限り、なにがしかの迷惑をかけるし、

なるべく不義理はしないように気を付けているけれど

生きていれば、義理を欠いてしまう状況が発生することもある

 

でも、お母さんはそれでも

人に迷惑をかけるな、不義理をするな

と私を縛り続けるのか

 

それで、社会を生きていけると思うのか

 

私以上に人に迷惑をかけ、

不義理をして(母の基準ですけれども(笑))

生きている人なんて

沢山いるぢゃないか!

 

だった。

 

これは母のせいではない。

 

子供の時から母に言われ続けた言葉を

正しいと受け入れて、

忠実にそれを行ってきたのは私だ。

 

子供の時には、生きる基準や指針としてあるものは

それでも仕方ないが、

大人になってもそのままそれを受け入れ続けてきたのは

私の責任だ。

 

私はそうぢゃないことを知っているのだから、

そうぢゃないものを選ぶこともできたのに、

選ばなかったのは私だ。

 

母のせいではない。

 

それに気づいて、

今日も少しまだ落ち込んでいる。

 

でも、これは誰に慰められるとか

誰かに解決してもらえることではない。

 

私が嫌ならば、その状況から出るのは

自由なのに出ないのは、私がそれを選んでいるからだ。

 

言い訳はいくらでもできる。

 

できない言い訳は沢山あるからだ。

 

それも、もっともらしい言い訳だから、

私は自分自身に簡単に説得される。

 

そこを自分で認めて、受け入れて

どうするのか行動しなくては。

 

でも、気力なんかもうないのだ、

とも思う。

 

どこか心の中で、

もう私はこの人生の中でここを抜け出ることは

できないかもしれないと

思っているところもある。

 

時間のある時にもうちょっと自分と対話しようと思っている。