うずちゃん押し問悶答(道)場~♪その日暮らし♪~

うずちゃん押し問悶答(道)場~♪その日暮らし♪~

うずちゃんの例の部屋の別館です。こっちはダークネスで。

日々、自分の中で押し問答したり悶々としたり

いや、多分、ほとんど悶々とした愚痴なんかを

そんなことを綴っています。


多分、自分史的な位置づけになると思います。


世の中をすべては知ってはいないけど

知ったような気になったりするだめな奴です。


今、世界は二極化していると言われますが

そんなことにも疑問を抱いている奴です。


お花畑スピも経験しましたが、

自分の人生と学んだ様々なことのバランスがおかしく感じて

実は、この頃よくわからなくなっています。


たっくさんの矛盾や疑問、自分の中の疑心暗鬼を

多分私は愛しています。


そして、それらに振り回されていながらも

必死こいて頑張っています。


寄り道してくださっても、ここは道場(笑)ですので

楽しいことが大好きさんには向かない場所です。


独り言が多いです。


そして、道場破りは勘弁してね。なのです。

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米ぬかボカシをいかに楽して、怖くなく作ろうかと色々見ていたら、

 

えひめAI(エヒメアイと読む)というのがガーデニングによさそうだというところへたどり着きました。

 

えひめAIはー1とー2があって、普通の家庭でも作れるようなのですが、温度管理が大変で、夏の暑い時に一度作ってみて正解を知ってから寒い時期の作成を試みようと思ったわけです。

 

環境浄化微生物で、ボカシ肥料作りの発酵促進剤でもよさげ。

 

と、発酵を調べ始めると酵母水とか米のとぎ汁発酵液とか、なんか楽しげで庭仕事を再開したおかげで次々と生活の中につながりができてきた。

 

一人でも遊べる(笑)

今年はボランティア(というか種と育て方はお金を出すんですが)である植物を育てることにしました。

 

母が亡くなって、家のそこここが修繕が必要な怒涛の一年が過ぎて、台所のあたりのワゴンやラックも買い足して整理し始めることができたら、少し心に余裕が出てきました。

 

庭で薔薇やハーブを育てているのですが、今年は早い時期から虫や病気にやられる植物が多いので、今は外に放置してある土の整理を始めて、そこに野菜くずを埋めて簡易キエーロを初めて見ました。

 

使い終わった土を捨てるという考えはもともとないのだけれども、土を再生するための技術がないので、調べ物をしながら家の庭の中でどれくらい循環できるかを模索中です。

 

いろんな人がいろんなことをしているのだけれども、なかなかピンとくるものがないのと、元来のズボラ体質でもできることっていうのがなかなかフィットしないわけです。

 

ズボラな人のもあるんですが、ズボラすぎてそれだとどうなの?ってなってしまうとなかなかやってみる気もしない。

 

そして、コンポスト的なものを始めるとどうしても虫、動物、ご近所の関係というのが苦痛で(泣)

 

今、ネズミに遭遇したくないがために米ぬかを使ったボカシ肥料を作るのが怖かったり。

 

遭遇しても、それなりの距離を置いて生活できればそんなに怖くないのですが、都会ではなかなかそうもいかないわけで。

 

なかなか、なんちゃってガーデナーの域は越えられないという感じです。

 

まあ、人生もなんちゃってだから仕方ないと思います。

そんなことってあるんだ!

 

と、びっくりしたのがエゴの深遠さだった。

 

私はエゴはなるべく薄めていったほうがいいと思ってきたのだけれども、エゴを薄めることによっての弊害っていうのもあるのだということに驚いた。

 

弊害を乗り越えるための訓練もあるようだけれども、私にはちょいと無理っぽい。

 

エゴがあることで守られているという部分。

 

エゴの存在着の深さに驚く。

 

え?ぢゃあどうしたらいいの?

 

についてはまだ答えが出ていない。

 

でも、エゴが薄くなるとそういうことが起こるんだというのはちょっと自分自身を振り返って思い当たることがあった。

今もそうなのかもしれないけれど、

 

世界の二極化

 

が取り上げられているのを見ると、以前は、なんとなく嫌な気持ちになった。

 

世界の二極化を取り上げている人間からなんとなく嫌な臭いを感じていた。

 

だけどよく考えてみるとその嫌な臭いはその人から出ているのではなくて、自分から出ていたんだと今ならわかる。

 

人より優位な世界に行く人間とそうではない人間

 

みたいな。

 

そして、その世界に行かずに高みに移動するためにそれを助ける人間がいて、取り残された人を一つ上の世界へ連れていくみたいな話を読んで、置いてけぼりを食う自分みたいな嫌な臭い、つまり、その人が放っているように思えた実は自分の中から湧いていた臭さに気づいたときのがっかり感。

 

二極化が『光、闇』『上、下』『上昇、下降』なんていう二元的な話dえはなくて、そうでなくても似た者同士が集まって生活したほうが楽ちんであることは確かで、同じようなにおいの人々が同じような世界を生きるというのは二極化が声高に叫ばれなくても、すでに起こっていることだと改めて気づいただけのことだった。

 

やだやだ、そういうことにまで振り回されている自分が。

 

そう考えると、例えばお花畑みたいな世界で生きたいと本気で選択すればそういう世界に生きているのだろうし、怖い陰謀論が叫ばれる世界で生きたいと思えばそういう世界で生きるわけだし、陰謀論と戦う世界でヒーローとして生きるのならそれもいいだあろうと思うし、今、とても多様な世界が簡単に目に入ってくるけれども、どんな世界で生きたいのか本気で選べばその世界で生きられるのだろうと思う。

 

ただ、私はそれらの世界を選択しないというだけの話なんだけれども。

 

コロナの時期、私はマスクする人、マスクしない人のいろいろな意見を見ては、マスクすることに対してなんだか損している印象があった。

 

マスクすることによっていろんな弊害が起きること、例えば、普通に呼吸しているだけで雑菌とかウィルスに対しての免疫が強まっているからマスクはしなくてもいいんぢゃないかとか。

 

なんとなくあっているような気もするけれども、世の中にはマスクをしないことで恐怖を感じている人だっている。

 

病気だったり、マスク自体が気持ちの安息をもたらしてくれるそういう精神状態の人もいる。

 

そういう人は自由にマスクをしていてもいいのだ、同じ場所にその人と一緒にいるときにはこちらも紳士淑女的な態度でマスクをするくらいの心の余裕のある人はいないのか?と思っていた。

 

実際、自分はもともとマスクは必要ないと思っているけれど、同じ空間を共有するときに相手がマスクをしない相手に敏感に反応するようであればマスクをします、という意見を見て、なんだかほっとしたのを覚えている。

 

その人は男性であったが、とても紳士的だった。

 

まあ、話がとっちらかったけれども、そうやって同じ世界を共有するためにできる努力をすれば世界が多極化したってその違う曲同士の人間が交流することは可能だろうし、二極化してくぜ!って恰好つけている世界よりずっと豊かな印象を持った。

 

二極化とか多極化していく世界に住みたい人はそこを選べばいいんだ、私は違うけど、ってスタンスでいればいいんだと思ったときに気持ちがいっきに楽になった。

 

もしかして、そんな世界を選んだら孤独のひとりきりになるかもしれないけれど、今のところはそうなっていない。

 

みんなが同じようにそれぞれの形であっても『幸せに生きられる』ような世界を私は選びたいなあと最近は思う。

 

そして、その世界はお互いを紳士淑女的な態度で相手を思いやれる世界で有れば尚いい。

 

ワクチン接種の時も色々悪いことを考えたりしたけれども、あまりにも毒々しい考えて自分で嫌になったから、それは内緒。

何が良い影響を現したのかがわからない。

 

毎日の内省(と言ってもあまりうまくいっている気もしない)の効用か、この前、モニターと言われて受けたセッションなのか、年月という諦めか。

 

ただ、意識として気づいた経験としては初めてだと思う。

 

感情的になりすぎる傾向のある私は感情を鎮める、とか、瞑想して感情に振り回されることにならないようにするとか、本当にできない人である。

 

感じきるとかわからない。

 

そうできる人のことがうらやましくてならなかった。

 

それほど自分では感情に対して厄介な気持ちが大きい。

 

今回、とても典型的に私を感情的にさせる対象が私をイライラさせることを起こしていたのだけれども、生まれて初めて意識して、私はイライラしたり、がっかりしたり、なんかそういうことが自分の中に起きているのに、私が私だと思っているものと感情のイライラとがっかりなどと少し距離を置いている自分に突然気づいたのだ。

 

その対象に対して、諦めとか呆れたとかそういうことなのかもしれないけれど、イライラして怒る、とか、がっかりして期待外れなことに対してとか、やっぱりとか悲しい気分とか、そういうものとちょっと離れたところにいる自分がいた。

 

モニターで受けたセッションは潜在意識のフィールドに他人がちょっと触れる、というようなセッションで、最近、そういうものとは距離を置きたいと思っている自分としては受けるとき、若干の拒否反応があったり、その後の好転反応が意外にも重かったので、なおのこと、今後は受けたくないなあと感じたものだった。

 

そもそも、コーチングとか受けても、NLPを学んでも、今の自分から変わるということに対してコミットしたふりをし続けていたんぢゃなかろうかという疑惑が自分自身に対してあるので、そのセッション自身もコミットすることができないでどれくらい意識に影響をもたらせるんだろうかと思っていたが、そのセッションのお題はまさに感情にかんすることだったので、なんらかの影響はあったのかもしれない。

 

何年も『なんちゃって内省』作業もしてきたのに、ある意味やはり私は残念な人なんだな、一瞬で誰かに影響を与えられる、ヒーリング効果を与えられる人もいるのに、とも思った。

 

けれども、それはそれとして、自分だと思っているもの と 感情 が別のものである、という感覚はなんとも不思議とありがたいものだと思った。

 

感情に振り回されて、怒りを感じては自分を毒し、悲しみを感じては自分を毒し、喜びだって楽しみだって過剰であれば毒である、そういうものから少し距離を置ける幸せ。

 

怒りから遠くにあり、自分で自分を毒することのないことのなんと楽なことか。